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教養デザイン ブック・レビュー

池田 功編『世界は啄木短歌をどう受容したか』桜出版(2019年)

紹介者:応 宜娉(教養デザイン研究科博士後期課程在学(3年)・大学院助手員)



 明治時代の文学者石川啄木は、近代国家が形成され、言文一致運動が行われた時期を歩み、産業社会に生きている人々の感情を、身近な言葉で歌った。このような啄木短歌は長い間<日本人>に愛読されてきていると同時に、実は世界の19の言語にも訳されている。筆者の指導教員である池田功編の『世界は啄木短歌をどう受容したか』(2019年・桜出版)は、この異なる言語に翻訳された啄木短歌の受容を解き明かしている。
 本書は <アジア圏・東洋圏>と<西欧圏>の2章で構成され、筆者を含め14人の執筆者が各自の節を担当している。啄木短歌が中国語、韓国語、インドネシア語、ヒンディー語、マラヤーラム語、英語、ドイツ語、ロシア語で、いかなる人に、またいかなるかたちで訳されているのかという、受容と翻訳に関わる多くの問題についての考察が行われている。このように複数の論点で構成されている本書は、どの節から読み進めても良いという魅力があり、同時に考察内容も豊富である。
 本書の魅力は、たくさんの一次資料が提示されていることにもある。例えば中国語圏における啄木受容の考察を担当している、教養デザイン研究科の院生、筆者が所属しているゼミの先輩である劉怡臻は、植民地台湾で発行された新聞などの新資料を提示している。さらに本書の執筆者の林水福やプラット・アブラハム・ジョージ、ルートリンハルトは、それぞれ啄木短歌を中国語、マラヤーラム語、ドイツ語で訳した経験があり、本書のなかで受容経緯や翻訳の難しさを記している。このような貴重な一次資料が多く収録されている本書は、比較文学、世界文学の研究にも参考できる資料を提供している一方、植民地研究、翻訳理論研究にもつながっているのである。
 本書では、文化の違いが翻訳でいかに現れているのかということが示され、そのような違いは「短歌」と「日本近代文学」を改めて考える材料を提供していると思われる。啄木短歌、あるいは短歌には「私」という代名詞がほとんど使われていないが、英語訳やドイツ語訳では「I」、「Ich」、つまり「私」の代名詞が加えられている。このような翻訳文は、日本近代文学における「私」が、世界でいかに表象され、理解されているかを考える際の補助線を引いてくれているのだろう。
 さらに、コロナ禍の時代に本書を改めて読むと、新たな意味が見えてくる。感染症がもたらしている恐怖、不安、閉塞感は誰でも経験しているが、しかし、階級や地域間の対立が激しくなるにつけ、このような感染症に対しての恐怖心や同情等を持つことができにくくなっている。
疫病が流行った時代に生き、肺結核で亡くなった啄木は、病への恐怖や死への不安を多く歌っている。そのため本書は感染症文学でもある啄木短歌が、世界でいかに受容されているかを論じているという文脈も潜んでいると思われる。ご一読いただければ幸いである。
 最後に、誠に勝手でありながらこの場を借り、本書の第1節の執筆機会をくださり、学問の<世界>の扉を開いてくれた池田先生、そして多くのご指導をいただいている教養デザイン研究科の諸先生に、深く感謝を申し上げたい。

著者プロフィール

氏名:池田 功
所属(研究科コース):教養デザイン研究科「文化」領域研究コース
職格:教授
研究分野
:日本近代における文学と文化及び社会
研究テーマ:日本近代の文芸研究、病と人間の文化研究、死生観の研究、石川啄木研究
学位:博士(文学)
主な著書・論文
『啄木日記を読む』(新日本出版社・2011年)
『新版 こころの病の文化史』(おうふう・2008年)
『石川啄木 その散文と思想』(世界思想社2008年)
『石川啄木 国際性への視座』(おうふう・2006年)

※内容やプロフィール等は公開当時のものです
明治大学大学院