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教養デザイン ブック・レビュー

丸川 哲史著『冷戦文化論(増補改訂版)』論創社(2020年)

紹介者:宮本 司(教養デザイン研究科博士後期課程在学(3年)・大連外国語大学外国人教員)



 本書『冷戦文化論』の試みは、「戦後日本」における文学、映画、知識人の言動を含めた「テクスト」を、「冷戦」の座標から解析することにある。それは、端的に言って、「戦後」という「反省」の形式、そのものに対する反省である。以下、その論点と方法につき、四点に整理したい。
 ⑴戦後における、戦前/戦中表象は、すでに冷戦の磁場から自由ではなかった(Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ・補論)。敗戦直後の「戦中体験」/「捕虜」/「復員」という主題は、アメリカによる占領とその「反戦」の限りにおいて、戦争と自己を、悲劇、受難者と規定はしても、他者の眼を欠いた。また、「逆コース」にとって不都合な「朝鮮人慰安婦」の記憶は、テクストの書き換えと再生産のなかでかき消される。結果、それらが最大公約数としたのは、「戦後」下の大衆消費である。その「戦後」と大衆消費自体、1945年以降、冷戦の最前線を他のアジア諸国に肩代わりさせ、且つ、反共政策としてのアメリカの援助にあぐらをかけたという、冷戦構造の賜物でしかなかった。ここに、主観的には「平和立国日本」としながらも、客観的には「冷戦」最大の受益者兼協力者という、自己矛盾/充足した「反省」の雛形が確定する。それは冷戦「安定化」にともない、「焼け野原からの復興」という、おなじみのサクセス・ストーリーへと肥え太っていく。
 ⑵その「雛形」を支える“想像力”そのものが、実は帝国日本からの持ち越しであった(Ⅱ・Ⅶ)。冷戦が瓦解したかに見えた90年代、村上春樹がモンゴル草原で得たという神秘体験は、福田和也を経て、どこまでも広がる“無垢”な大陸(海)イメージへと回収される。小洒落た都市生活者の共感を裾野にもつ村上であれ、大陸にロマンを見てとる福田であれ(『地ひらく』)、その反面にあるのは、「生活」を見据えるリアリズムの欠如、彫りの浅さである。それが「陸」の社会(冷戦の向こう側)の重みに耐え得ないのは、保田與重郎が北京の「政治」に愛想を尽かし、「蒙疆」に昇華を求めたのと同じであった。それら「生活」に媒介されない“無垢”な「大陸」イメージは、一度冷戦の「余裕」に揺らぎが入れば、神秘化から一転、悪魔化すること必然である。そこに通底するのは、「西側」の片棒を担ぎながらも、その立場性から離れて、「反省」を個人感情の問題に還元して憚らない“無垢さ”である。それを外から見た時、現実否認に映ったのも無理はない。
 ⑶かくして、筆者はそこに、竹内好の「現代中国」論を対置させる。すなわち、「日中戦争における敵対性の持続と、まさにその敵対性を隠蔽してしまうかのごとく「現代中国」が東/西冷戦の敵対者として冷戦構造の向こう側へ配置され」(35)ている、この現実を、「「我」の中に敵を敵として定位しない自身を否定し、むしろ敵を絶対化する試みに賭ける」(38) という行為において顕在化させようとする、プラグマティズムである。第一章に竹内が配置されているのは、如上の責任主体抜きでの「戦後」を衝く戦略であるとともに、氏の示す広い意味での「文学」を通じて、「日本文学」そのものの底の浅さを浮き上がらせる意図による。筆者の問題意識はここに極まる。
 ⑷つまるところ、「冷戦体制とは、日本が「アジア」に出会わないで済むための「鏡」」(127)だったわけだが、戦後日本に「アジア」と出会う試みが無かったわけではない(Ⅴ・Ⅵ・Ⅶ・Ⅷ)。特に、谷川雁がいう「故郷」とは、「土地と人間の自由」(231)を共同創出する「場」を指した点で、「飢餓」に沈む、人々の深い熱量のよどみを原点とした中国革命と地続きであった。筆者がそれらを、「飢餓のリアリズム」と形容する所以である。

著者プロフィール

氏名:丸川 哲史
所属(研究科コース):教養デザイン研究科「文化」領域研究コース
職格:教授
研究分野
:東アジア思想・文化論
研究テーマ:20世紀文化と知識人
学位:博士(学術)
主な著書・論文
『冷戦文化論』(双風舎・2005年)
『日中一〇〇年史 二つの近代を問い直す』(光文社・2006年)
『台湾における脱植民地化と祖国化—二.二八事件前後の文学運動から』(明石書店・2007年)
『台湾ナショナリズム』(講談社・2010年)
『魯迅と毛沢東』(以文社・2010年)
『思想課題としての現代中国』(平凡社・2013年)
『魯迅出門』(インスクリプト・2014年) 

※内容やプロフィール等は公開当時のものです
明治大学大学院