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教養デザイン ブック・レビュー

岩野 卓司編『贈与論 資本主義を突き抜けるための哲学』青土社(2019年)

紹介者:大田 尚(教養デザイン研究科博士後期課程在学(3年))



 突然、隣人が手土産を持ってきたら、押し売りでもないなら何だろう、と警戒心を抱く人も少なくないだろう。商品と貨幣の交換を基礎とする経済活動は自動販売機でコーラを買うことと、中国人留学生の店員からコーラを買うことに違いを認めない。資本主義の発展は人々を身分から解放し、国境を越えた個人の自由と自立の道を開いた。一方で格差は拡がり、個人は絶え間ない競争にさらされ、人間関係は希薄化した。今や取引相手ではない隣人は赤の他人であり、他人が何の利益も求めずに声をかけてくる、ましてや物品を持ってくるなど不自然なのだ。
 隣人への挨拶回りは人間関係を築くことこそが目的であった。手土産はそのために贈られていた。何かを贈るという行為はクリスマスや誕生日、年賀状やお年玉などに一種のしきたりのように見られる。贈らなかった場合には罪悪感を、贈られなかった者は不満を覚え、贈られた者はお返しをしなければならないという義務感に追われる。お年玉の場合は大人になった際、贈る側に立たなければならない。こういった多くの習慣は廃れつつある。しかし今でも贈与はこのような形で人間関係を形成する機能を担っている。経済的には損失でしかないのに、である。
本書『贈与論 資本主義を突き抜けるための哲学』はそのような「交換」の枠組みに収まらない活動としての「贈与」に注目し、そこから社会や人間の資本主義に還元できない部分や世界を見直すものである。
 本書の中心部は、六人の思想家を論じた「贈与」の思想史となっている。その語り口は平易であり、思想書にありがちな難解な専門用語はよく噛み砕かれ、各章の導入や抽象的な議論の間に散りばめられた具体例も身近なものとなっているため非常に読み通し易くなっている。
 最初に取り上げられ、さまざまな思想家のアイディアの源泉となったモース、それに続くレヴィ=ストロースの章では「贈与」は交換の起源とみなされており、受け取り手は返礼の義務を持ち、贈り手はその贈り物の価値に比例して権威を帯びるとされる。これらは贈与にまつわる罪悪感や返礼の義務感を説明するものであり、経済的利益を最優先する資本主義がそぎ落としがちな人間関係を形成、強化するという点で資本主義的な交換と区別される。
 しかし、私見では「贈与論」の面白さはこの先にある。「贈与」がそのようなものでしかないならば贈与は広義には交換の一形態とみなされる。実際、プレゼントの背後に相手の下心が見える時、このような贈与は遠回しの交換に見えるし、モースやレヴィ=ストロースの贈与は「贈与交換」と呼ばれている。
 だが、臓器移植や自然の恩恵などを贈与の一種と考えた場合はどうなるだろう。「贈与交換」とは違う、まったく交換に還元できない一方的な贈与があるとしたらどうだろうか。続く四名の思想は、その可能性を探求したものである。バタイユとヴェイユは互いに対立しながらも「贈与=放棄」という図式を見出している。デリダとマリオンは認識される贈与という行為、あるいは現象の背後に決して認識されることはないが、根源的で決定的な贈与を捉え、その観点から責任や主体、愛などを問い直していく。
 私たちは煩わしい人間関係から解放された。それは同時に孤独感、閉塞感の増大でもあった。本書は抗いがたい富を増やせという命令に順応あるいは従属するのとは、別の道があることを示している。「贈与論」は今後、その需要を増していくことだろう。その際、本書は最適な道標となる。

著者プロフィール

氏名:岩野 卓司
所属(研究科コース):教養デザイン研究科「思想」領域研究コース
職格:教授
研究分野
:哲学、思想史、日本思想、暴力の系譜学、言語と政治
研究テーマ:西欧思想史における暴力の解釈とそれが抑圧してきたものの考察、終末論と死の問題の研究、神学・形而上学からファッションのテキストまで「裸」と「衣服」がどう捉えられてきたかの研究
学位:Ph.D.
主な著書・論文
『ジョルジュ・バタイユ—神秘経験をめぐる思想の限界と新たな可能性』(水声社・2010年)
『語りのポリティクス』(共編著・彩流社・2008年)
L’expérience et la divinité chez Georges Bataille(ANRT・2008年)

※内容やプロフィール等は公開当時のものです
明治大学大学院