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教養デザイン ブック・レビュー

伊藤 剣(教養デザイン研究科教員)著『日本上代の神話伝承』新典社(2010年)

紹介者:植田 麦(政治経済学部准教授)



 本書は2010年に刊行された、伊藤剣の第一論集である。全体は四部構成となっており、第Ⅰ部は『日本書紀』の本文と一書、第Ⅱ部は『日本書紀』の神話伝承、第Ⅲ部は『古事記』の神話伝承、第Ⅳ部はいわゆる古風土記の神話伝承についての論である。
 さて、本書であるが、まずは彼の研究の背景を知っておくべきであろう。彼や書評子が研究する日本(上代)文学研究、殊に散文作品を対象とするものでは、80年代の半ばに大きな地殻変動がおきている。それまで、上代散文についての研究は、『古事記』や『日本書紀』といった神話テキストがいかに成ったのかを考える、成立論が主であった。「記紀神話」や「日本神話」といった、個々のテキストの背後にある遡源的な神話があって、そこからいかに神話伝承が成立するのかを考えることが求められていた。しかしながら、80年代以降、個々の作品に基づいた研究、いわゆる作品論が提起され、それまでの成立論の議論は見直しを迫られた。というよりは、「強く否定された」といってもよい。
 それからさらに20年以上が経過し、作品論自体も批判されることが多くなった。作品論をベースにしつつ、その発展を考える立場もある(書評子はこの見地に基づいて研究をする)が、伊藤は成立論の見直しをする立場である。おおよそ予想もできようが、一度否定されたものを改めて見直しをするというのは、相当に労力が必要である。
 本書を初めて読んだのは10年前であるが、今回、書評の依頼によって改めて本書を読んだ。現在、伊藤の研究は学界でもその手堅さで高い評価を受けているが、この時点でその綿密な論考が完成されていることに感銘を受けた。
 特に面白かったのは、〈記紀神話〉の再規定である。上述のとおり、「記紀神話」は『古事記』や『日本書紀』に先行する遡源的神話の謂いである。それが作品論的研究では強く否定される。というのは、ごく簡単にいってしまえば「似てるものが異なるテキストにあるからといって、それが異なるテキストにおいて同じ文脈を有することにはならない」と批判されたのである。しかし、伊藤はあえて〈記紀神話〉概念の有効性を提案する。ただし、遡源的神話としてではなく、個々のテキストから伝承が収束されていくものとして、〈記紀神話〉の概念を措定している。ベクトルが逆なのである。本書の論考の中で〈記紀神話〉についての提示は多くないものの、基層となっていることは確かである。
 また、本書の題目にもある「伝承」の形成について、既存の伝承の上にさらなる異伝が展開していくすがたを求める視座も、本書刊行から10年が経つ今なお、その輝きを保っている。これは、伊藤がその後も精力的に研究を進めてきたためであろう。
 とはいえ、全体に対して不満がないわけでもない。その不満を集約すれば、研究の方法論全体について概括的な提示がないことである。論考を読み進めると、「形成(論)」という表現がみられる。上代文学研究のなかで「形成論」の概念は必ずしも一義でないように書評子は感じる。伊藤があえてこの表現を用いるのであれば、自身の研究の在りよう、その基盤と結びつけて説明があってもよかったのではないか、と考えるのである。
 本書刊行当時、伊藤は早稲田大学大学院を修了したばかりの若手研究者ながら、本書には16の論文がおさめられている。そののちも現在に至るまで、伊藤は滞ることなく多くの論考を公にしている。書評子は伊藤と同世代で、お互いが大学院生のころから、彼が上代文学研究の王道を驀進するのをまばゆくみてきた。それが、同じ組織で働くことになるとは、10年前には思ってもみなかった。願わくば、伊藤の次の論文集は書評子の在職中に刊行してもらいたい。

著者プロフィール

氏名:伊藤 剣
所属(研究科コース):教養デザイン研究科「思想」領域研究コース
職格:准教授
研究分野:日本古典文学
研究テーマ:文学研究の立場から見た日本古代の神話の研究
学位:博士(文学)
主な著書・論文:
【著書】『日本上代の神話伝承』(新典社・2010年)
【論文】「日御碕本『出雲国風土記』から『出雲風土記抄』へ——捨仮名の本文化に見る写本系統の再検討——」『上代文学』112、1-13頁(2014年)

※内容やプロフィール等は公開当時のものです
明治大学大学院