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教養デザイン ブック・レビュー

岡本 和子編『暴力の表象空間 ヨーロッパ近現代の危機を読み解く』法政大学出版局(2024年)            ※執筆者は、岩野 卓司・釜崎太・鈴木哲也(三名とも教養デザイン研究科教員・法学部教授)他

紹介者:佐藤 公紀(教養デザイン研究科教員・法学部専任講師)

他者と触れ合うことは、暴力をもたらす可能性を生み出す。他者との交流は、喜びでもあるが、かえって暴力を呼び込む契機ともなる。人間は他者と関係することと暴力とが分かちがたく結びつくこの世界から逃れるすべはなく、できることは他者と分かち合う喜びが暴力という恐怖に転化する局面を入念に観察し、それをできるだけ精確に記述しようとすることだけだ。それだけが、不可避の暴力をそれでもなお可能な限り回避しようとする抵抗の所作となる。
 他方で、この暴力への抵抗は一義的な形態を取ることは決してない。なぜなら、暴力のあり方には、現実世界にはびこる物理的な暴力のみならず、人間関係の不平等から生じる心理的暴力や社会や文化に組み込まれた構造的暴力、さらには文学作品に現れる言説上の暴力に至るまで、ほんの少し考えてみるだけでも多種多様な形態が思い浮かぶからだ。こうした多様な暴力のあり方に対しては、必然的にそれに抵抗する営みも多様なものにならざるを得ない。
 本書には、暴力への抵抗の可能性を、一見バラバラに見える問題意識のもとで各々独立した形で追究する論考が収められているが、それはいま述べたような暴力の特質に由来しているからだと言えるかもしれない。そのあり方自体が暴力の多様さや捉えがたさを示しているのだとすれば、本書がこうした形を取らざるを得なかったことも自ずと理解されよう。
 本書に収められている多彩な論考のうち、ここでは本研究科教員が執筆した三つの論文を紹介したい。釜崎太「ドイツの市民社会と文明化の過程—政治と暴力の表象空間としてのサッカー」は、暴力の「自己抑制」(N.エリアス)の結果成立した「文明化」された社会のなかにおいて、サッカーというスポーツは、暴力が許容される「暴力の飛び地」でありながら、「自己抑制」の機序をも有する場として立ち現れることを指摘している。そのためサッカーは、スポーツの枠を超えて、いわば暴力と非暴力とが絶えずせめぎ合い、更新され続ける市民社会の限界=境界を示すダイナミックな現場となっている。釜崎論文は周到な議論のもと、近年はこのサッカーという「暴力の飛び地」に人種差別という新たな暴力が呼び込まれつつあり、サッカーはもはや政治闘争の場へと変貌していることを指摘する。
 岩野卓司「ケアにおける贈与と暴力」は、ケアと贈与の間に本質的な結びつきがあるという洞察から出発している。岩野論文によれば、ケアとは、ケアされる者がケアに先立ってケアする者に与える「根源的な贈与」から出発しており、その応答としての「贈与」が次々と連鎖して成立するものであるという。しかし、もしケアが、ケアする者によるケアされる者への「一方的な贈与」だと解されるならば、それがどれほど善意の上に行われていても、それは暴力の契機を呼び込む危険な行為となりうる。このケアの危険性を回避するためには、ケアする者がケアされる者の「叫びや身体の兆候」という「根源的な贈与」に応答できるような、新たな人間の共同性を立ち上げる必要がある。岩野論文は、そう呼びかける。
 鈴木哲也「暴力と詩的表象—シェイマス・ヒーニーと北アイルランド紛争」は、アイルランドの国民的詩人シェイマス・ヒーニーの著作のなかに現れる、詩と政治との見えざる相克を論じている。ヒーニーは、いわゆる北アイルランド紛争が活発化するなかで、一見政治から背を向けた詩的な営みを実践し続けた。しかしこれは、個別具体的なものを「集団」へと抽象化し、人々を分断する政治の言葉に対し、詩的想像力を通じて人々の「個人性」を回復させる抒情詩の力に賭けた、ヒーニーの抵抗の身振りであった。それは、壮絶な北アイルランドの現実に詩人として真っ向から向き合おうとしたヒーニーの詩的実践そのものだった。鈴木論文はここにヒーニーの詩人としての誠実さを見出している。
 本書は、「世界は暴力に満ちている」(1頁)というこの時代において、暴力のありうべき形態に対する多様な抵抗のあり方を提示する書である。本書がより広範な読者に迎えられることを切に願っている。

著者プロフィール

氏名:岩野 卓司
所属(研究科コース):教養デザイン研究科「思想」領域研究コース
職格:専任教授
研究分野:哲学/思想史/日本思想/暴力の系譜学/言語と思想
研究テーマ:思想史における暴力の解釈/共同体と共同性の研究/哲学・宗教・人類学における贈与論/日本思想史
主要著作:『贈与の哲学-ジャン=リュック・マリオンの思想』(明治大学出版・2014年)/
『共にあることの哲学』(書肆心水・2016年)/『共にあることの哲学と現実』(書肆心水・2017年)/
『贈与論』(青土社・2019年)/『はじまりのバタイユ』(法政大学出版・2023年)/
『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ・2023年)
 
氏名:釜崎 太
所属(研究科コース):教養デザイン研究科「思想」領域研究コース
職格:専任教授
研究分野:身体教育論/ドイツスポーツ研究
研究テーマ:市民社会とプロスポーツ及びスポーツクラブの関係/メディア・身体を中心としたスポーツ研究 
主要著作:「ドイツの市民社会とブンデスリーガー共的セクターとしての非営利法人の機能—」(スポーツ社会学研究.29-2号.
2021年)/「ギラヴァンツ北九州の社会貢献活動に見る共的セクターの役割と課題」(年報体育社会学.3号.2022年)
 
氏名:鈴木 哲也
所属(研究科コース):教養デザイン研究科「文化」領域研究コース
職格:専任教授
研究分野:言語社会学
研究テーマ:コミュニケーション・テクノロジーの発達と社会構造の変化の相関性
主要著作:『ケルト口承文化の水脈』(共著・中央大学出版部・2006年)
 
※内容やプロフィール等は公開当時のものです。
明治大学大学院