Go Forward

「ガクの情コミ」学際研究ラボを開催しました

テーマ「暴力」

INDEX

「社会変容と民衆暴力」(須田努 教授)

民衆暴力は社会変容の際に起こる
人類の歴史を振り返ると、平和で世情が安定していた時期でも暴力は起きています。しかし、民衆の暴力が集団化するのは、社会変容の際が圧倒的に多いということがいえます。その視点から、日本史を舞台に、幕末から明治20年代までを社会変容の時期として設定し、その中における民衆暴力の問題をみてゆきます。

初めに戦国時代と江戸時代とを比較してみます。戦国時代には全国を支配する人物や組織(統一政権)が存在しなかったため、トラブルは当事者の力で解決していきました。ところが江戸時代になると、江戸幕府が全国を支配し、幕藩領主が個別支配を安定させたので、権力に仲裁を求めたり、判断を仰ぐ方が良いという意識が生まれます。そこで人びとは自律的に暴力を抑制し、訴えを起こすことを選択しました。江戸時代は訴訟の時代ともいえます。

どの時代にも、一定の政治・社会体制が存在し、それをささえている政治理念というものがあります。江戸時代、「仁政」と「武威」という2つの政治理念がありました。重い年貢を課す引き換えに百姓の命と家の存続を保証するという考え方を「仁政」、武力に秀でた武士が外敵から民を守ることを「武威」といいます。この2つの理念が江戸幕府体制というシステムを支えていたのです。

そして、この政治理念のもと、社会が平和で安定していることを前提に、日本独特の百姓一揆という社会文化とも呼べる、抵抗運動が生まれます。百姓一揆には「作法」があり、非暴力・訴訟の作法が流布されていることが分かっています。

社会変容というのは、江戸時代の2つの政治理念が揺らぎ、江戸時代が終わって明治時代に移る過程を指します。まず天保期に飢饉や凶作時にも幕藩領主が民を救わなくなり、「仁政」が揺らいでいきました。さらに欧米列強の接近により、幕藩領主に武力が備わっていないことが露呈し、「武威」も崩壊します。こういった社会変動が30年もの間続きます。そんな中、百姓一揆の「作法」の崩壊が始まり、暴力に依拠した抵抗運動(騒動)が始まります。
暴力に依拠した2つの騒動
社会変容は、天保期からはじまり、国民国家が一定の安定をみせる明治20年代(日清戦争ころ)まで続きます。そこで、社会変容の始まりの天保期と、終焉の明治20年代に着目し、それぞれの時期に発生した2つの騒動・事件を見てみましょう。
 
百姓一揆という抵抗運動では武器を使いません。武器を用いた事例は、1430件起こった百姓一揆のうち、たった15件で、すべて天保期以降に発生しています。つまり百姓一揆の非暴力という「作法」は、天保期に崩れたと考えられます。そこで、その典型ともいえる甲州騒動をみてみましょう。

天保7年(1836)に発生した甲州騒動では、「悪党」と呼ばれる若者が武器を持ち、集団で高利貸や米穀商を襲撃し、放火を行いました。江戸時代、このような民衆による集団暴力の事例は始めてのことでした。これに対し甲府の代官幕藩領主は「彼らを殺害して良い」という命令を出します。百姓一揆に対して、幕藩領主が殺害命令を出したケースはありません。つまり、幕藩領主・民衆の間でのコミュニケーションは完全に崩壊しています。

明治20年代の事例を見ていきます。まず前提として、明治時代の様相に簡単に触れておきます。明治新政府は強引な近代化と文明開化を進めますが、人びとは、江戸時代と変わらない生活のもとに生きていました。大きなギャップの中で社会変容は続き、暴力化した騒動が発生していました。

そのような中で、最大規模の秩父事件が起こります。この頃は近代的な金融や債務関係が形成された時期ですが、それらを民が理解できなかったことが問題としてあります。江戸時代は個人間の金銭・土地貸借関係にも幕藩領主が介入していましたが、近代的な資本主義社会において、そのようなことはありえません。ところがこの方針転換を民は理解できませんでした。日本各地で、武装蜂起した人たちが暴力によって高利貸を襲撃するという、負債農民騒擾が発生していました。そのもっとも大規模なものが秩父事件といえます。明治政府はこの騒動を秩父という山間地域内部で鎮圧しようと企図し、軍隊を派遣してこれを殲滅しました。民衆暴力を考察する場合、秩父事件はいかに語られたのか、また、これを最後に農民たちによる地方での民衆の集団暴力(騒動)はなぜ無くなったのか、ということが重要な論点となります。

秩父事件のリーダーたちはこの事件を「国家に対する反乱」だと語りました。自分たちを政治犯として裁け、と裁判の場で主張したのです。しかしそのようなことを政府がするはずがなく、彼らを暴徒として処刑していきました。新聞も現地を訪れることもなく、「婦女子に暴力を振るう愚昧な暴徒が敗北した」と報道しました。暴力とは前時代的な粗暴な行為である、ということです。こうして人びと(国民)は納得し、地方での暴動は終わっていきました。メディアが「民の暴力」を、否定するべき前近代的な行為としてフレームアップしていったのです。日本は文明国(一等国)入りをする国民国家ということで、新たな政治理念が生まれてゆきます。それが、民権であり納税者参政権といえます。民衆は言論によって国会で主張するという時代となったのです。

最後に民にとっての暴力とは何か、ということをまとめます。社会変容が起こるなかで社会が不安定になったときに手段としての暴力が単発的に起こります。けれども社会が安定してくるに従い、それは否定されていくということです。そして、暴力の担い手は、若者であったということが分かっています。