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テーマ「暴力」

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幕末・明治期の演劇に描かれた暴力(日置貴之 准教授)

演劇で描かれなかった民衆の暴力
ここでは幕末・明治期の演劇に描かれる、現実社会における暴力を反映した表現について考えます。暴力とは、個人・集団による他者に対する物理的な攻撃の行為を指すものとし、国家など大規模な勢力間の暴力行為=戦争は除くものとします。

その前にまず、歌舞伎における「暴力」の表現として、「荒事」という演技様式の存在を指摘しておきます。稚気にあふれ力に満ちた勇壮活発な人物の行動を表すもので、独特の表現や小道具を伴い、超人的な力を表現する演技術で、いかにも「歌舞伎らしい」様式性とインパクトを備えており、言い換えればこれは暴力を舞台芸術にしたものと言えるかもしれません。

ただし、劇中における荒事の担い手を見ていくと、その多くは武士階級やそれに準じる人々であり、庶民がそうした超人的な暴力の主体となることは稀です。また、現実世界における民衆による暴力行為が劇化されることも少なかったといえます。その背景には、現実世界においては仁政イデオロギーが浸透し、百姓一揆が作法に基づいて領主に対して仁政を求める非暴力的なものになっていったことや、同時代の出来事の直接的な劇化が禁止されていたことなどを指摘することができます。

仁政イデオロギーに基づく支配体制への百姓一揆の作法は17世紀後半に確立されたとされますが、寛永14〜15年(1637〜38)の島原・天草一揆はそれ以前に生じた暴力的な一揆として知られます。この一揆がどのように演劇で描かれたのかを確認しておきます。

この事件は近松門左衛門の浄瑠璃『傾城島原蛙合戦』をはじめとするいくつかの浄瑠璃・歌舞伎の題材になっていますが、焦点となるのは七草四郎(天草四郎)の駆使する妖術で、現実の一揆における民衆の暴力がリアルに描かれているとは言えません。17世紀後半以降、仁政イデオロギーのもと一揆は作法に基づいた暴力性の低い行為として定着していき、演劇において正面から取り上げられることはありませんでした。

須田努氏は、天保期に百姓一揆の作法から逸脱する暴力的な行為が表れると指摘していますが、歌舞伎では嘉永4年(1851)8月に江戸・中村座で初演された三代目瀬川如皐作『東山桜荘子』(「佐倉義民伝」)が百姓一揆を本格的に描いた点で画期的とされています。須田氏は伊豆国下田町において、祭礼の芝居をめぐって若者と町役人の間に対立が生じ、一揆につながった例を指摘していますが、『東山桜荘子』も村芝居が演じられる様子を描いた序幕から始まります。また、劇中の百姓たちが六尺棒を所持していたり、「あぶれ者共をかたらいて」蜂起したとされるなどの描写は、天保期以降の百姓一揆の現実を反映しています。ここでは幕末の民衆による暴力の実態がリアルに描かれているのです。

明治期の黙阿弥作品のなかの「暴力」

明治期の黙阿弥作品のなかの「暴力」の事例にも触れておきます。『東山桜荘子』上演の一方で、天保期以降の一揆・騒乱も、やはり直接的には演劇の題材にはなりませんでした。明治期には過去の歴史的事件を実説通りに上演することが可能になったのですが、戊辰戦争、西南戦争、日清・日露戦争といった戦争が盛んに劇化された一方で、民衆による暴動事件等が舞台にのぼることは基本的にありませんでした。

そんななかで注目したいのは、幕末・明治期を代表する歌舞伎の作者である河竹黙阿弥が明治8年(1875)に執筆した『明治年間東日記』です。上野戦争から彰義隊の記念碑建立までを一年一幕、全八幕で描いています。このうち四幕目(明治4年)は、いわゆる身分解放令(賎民廃止令)を題材としています。被差別民であることが発覚した登場人物が暴力を受けるといった場面は、当時の身分差別をある程度リアルに反映していると思われますが、この場面は、明治初期の「新政反対一揆」のなかで生じた被差別部落襲撃を暗示したものと見ることができるかもしれません。

明治15年に上演された黙阿弥作品『偽甲当世簪』では、日本国外の民衆による暴力が暗示されています。この作品は7月に朝鮮・漢城(現在のソウル)で起きた兵士らによる反乱事件である壬午事変が題材ですが、東京の一商家を朝鮮王朝に見立てるなどの脚色がされており、表向きは壬午事変を描いたものとは見えません。明治期に入っても、現実世界の民衆による暴力は、舞台上では不可視化されていたと言えそうです。

暴力描写が近代の民衆暴力に影響を与えた可能性

明治37年(1904)3月東京座では、開戦から間もない日露戦争を描いた歌舞伎『日本勝利歌』が上演されました。日比谷公園に戦勝の号外がもたらされ、提灯行列となる幕切れが花々しく舞台で描かれた一方、約1年半後、講和への不満から同じ日比谷公園で生じた騒擾(日比谷焼打事件)は、当然ながら舞台に上ることはありませんでした。国家による暴力として正当化され、舞台で表象されることがむしろ奨励される戦争と、犯罪行為として取り締まりの対象となり、舞台上でも不可視化される民衆暴力との違いが対照的にあらわれた例と言えるでしょう。

ただし演劇と現実世界における民衆暴力が希薄な関係しか持っていなかったと結論づけるのは早急です。明治期以降、劇場は盛んに演説会場となり、こうした演説会がときに暴力の場となったのも事実で、日比谷焼打事件の際も、日比谷公園における国民大会に続いて新富座で演説会が行われ、ここでも群衆と警官との衝突が発生しました。また近代の都市暴力の主要な担い手となった土木建築業などに従事する男性労働者に対して、演劇や浪花節、映画の娯楽が広く影響を与えたことも指摘されています。 

演劇が現実社会における大規模な民衆暴力を十分に描くことは困難だった一方、フィクショナルな「暴力描写」が、そののちの近代における現実の民衆暴力に影響を与えた可能性があると言えるでしょう。