Go Forward

「ガクの情コミ」学際研究ラボを開催しました

テーマ「暴力」

総合討論

コーディネーター 大黒岳彦
石川幹人 
須田務 
宮本真也
日置貴之
横田貴之
高馬京子

グローバリゼーションにより画一化、均一化される暴力表象

コーディネーター
僕の学生時代には体罰が当たり前でしたし、暴力が巷にあふれて日常的な風景を構成していました。でも今は、僕の印象では暴力がきれいに日常生活から消え去っています。ところがイスラムや中国など、海外には日常生活に暴力が存在する国もあります。暴力にはこうした歴史的、文化的相対性の問題があるため、十把一絡げにしてはいけないはずなのに、グローバリゼーションが蔓延するなかで、暴力表象も画一化、均一化されている気がします。

石川
「暴力」が動物的なことであると捉えられる意味合いで、例えばイスラムは過激で動物的だとか、1980年代の日本はフランスから見ると野蛮な社会だとか、そういう見方で排斥の材料に使われる動きがあると思います。ただ私の観点、つまり動物と人間に大差はないという点で言うと、動物性はみんな秘めているので、その動物性を認識したうえで、国際協調などいろいろな文化を比較・検討するにはどうしたらいいのか、という論点で考えるといいのかなと思いました。

須田
要するに暴力を忌避していくという意識は、周りとの関係性のなかで、倫理と同じく、作られていくものです。平和で安定した社会の中で暮らしていた人々が暴徒化するという問題を、問い続ける必要があるというのが、私の考えです。もうひとつは、現代社会での暴力は多様化していて、不可視化されていると言えると思います。見えない形だけれど非常に陰湿化していて、出てきたときにそれが目立つのでフレームアップされていくのではないでしょうか。

宮本
暴力が生活とか社会空間からなくなっているのでしょう。それをどう見るかですが、良いか、悪いかで言えば、良いと思います。暴力を使ってはだめだと気づくことで、異議申し立てが起きて、変化している、そのプロセスだと思います。他方で須田先生がおっしゃるように、変質化しているとも思います。支配という形で力を及ぼす暴力はネットでも起きています。

日置
相対性ということで言うと、例えば荒事は江戸で人気を博した一方で、江戸時代の上方(関西)の観客には支持されませんでした。演劇の歴史を見ても、残酷な演劇が流行る時期や地域があります。それはその地域の人が暴力を好んだり、暴力にまみれた生活を送っていたわけではなく、時代や地域によって暴力に対する捉え方が相当に違うということの表れだと思います。

横田
中東研究者にとって、暴力は日常的に取り扱うものであり、研究のテーマそのものです。現地には直接的な暴力もありますし、秘密警察による嫌がらせや、もっと隠蔽された暴力もあります。中東諸国は暴力にさらされる度合いが日本とはまったく違うわけです。やはり地域、文化、時代、歴史によって「暴力」は異なる、まさにその通りだと思います。

高馬
確かに暴力は無くなったように見えますが、漫画など現実世界ではないところでの暴力は増えているように感じます。残酷で過激な暴力性はメディアなどで再現されていて、現実では叩かれることはないものの、表象の世界では暴力が渦巻いている気がしました。

情報化社会における抽象化、不可視化された暴力

コーディネーター
近年は暴力が抽象化してわかりにくくなっています。口では「暴力はダメだ」「差別はダメだ」と言いながら、その人自身が特権意識の固まりで、実は差別していることに気づいていないパターンもあります。情報社会における暴力の抽象化や不可視化、陰湿化についてどう思われますか。

須田
生まれながらで避けて通れないもの、人種や民族などそれらに対する差別はダメです。ところがその後起こってくる問題として、学歴や貧富の差など、「努力しなかったからでしょ」というものもあります。これも暴力といえます。無意識の暴力。努力していないから今のあなたが悪いんだ、という上位の人たちの無意識下の問題だと思います。

宮本
 政治学者のナンシー・フレイザーも同じ批判をしています。例えばアメリカでいうとクリントン、オバマ、バイデンと能力のある女性の採用に積極的に見えますが、結局は、スタート地点での競争での不平等のために這い上がれなかった人を、男性、女性の区別なく切り捨ててきていると。そういうやり方はネオリベを批判しながら、逆にプログレッシブなネオリベになっていると言っています。

石川
見えない暴力を見えやすくして、暴力自体を解消していくような方向性が求められているなと。支配関係といいますか、リーダーや上下関係といった人間関係は不可避なので、暴力を外したところでいかに上下関係を社会的な機能として持続できるかという方向性がいいように思います。

横田
 例えばアルカイダの指導者は戦場の半分はメディアだと明言しました。暴力をおおっぴらにすることでコアな人たちを獲得する、閉鎖的な空間に引き込むといった取り込み方をしているわけです。情報社会というのは暴力だけではなく、暴力を指向する組織にとっても活動がしやすい空間だと言えます。

高馬
フランスでテロがありましたが、フランスでは風刺画を見て意見を言う社会があったのですが、イスラムでは偶像崇拝はしてはいけないということで、結果的にテロが起きてしまいました。文化のグローバル化によって隠れている言語文化の差のようなものが暴力的な表現を生み出し、さらにそれによって現実の暴力を生み出してしまったということにつながっていったのかもしれません。

日置 
明治時代になると、身分制が崩壊し、立身出世が可能になる一方で、貧困などを当人の能力や、努力の欠如に結びつける風潮が現れ、そういった様子は当時の歌舞伎の台本にも描かれています。新聞のような新時代のメディアや演劇がそういった思想を広げる役割を担った面もあるでしょう。ただし、『水天宮利生深川』という歌舞伎では、貧しさのあまり一家心中に及ぼうとする家族が、新聞記事で窮状を知って同情した読者による義援金によって救われる様子が描かれています。当時実際に、貧しい人に新聞の読者が義援金を送るといった現象が頻繁に起きていました。そこにあるのは、いわば自助・共助だけで、社会システムによる公助の欠如は問題ですが、一方で自分たちの社会で生じた差別や貧困の問題を、自分たちで解決するという意志もそこには見られると思います。

暴力は本当に無くさなければならない「悪」なのか

コーディネーター
暴力は英語では「バイオレンス」で物理的な暴力をイメージしますが、ドイツ語で「ゲバルト」となるともう少し含みがあって、権力といった抽象的なものもイメージさせます。ヴァルター・ベンヤミンは暴力を「神的暴力」と「神話的暴力」の2種に区別したうえで暴力は必要悪だと言っています。最後に聞きたいのは、暴力は本当に無くさなければいけないの? ということです。

石川
あえて挑戦的に言うと、私は無くした方がいいと今だから思っています。なぜかというと大量破壊兵器が容易になった時代で、ごく少数の集団、個人の想いで、地球全体に大きな影響が及ぶことになりかねないので、昔とはちょっと違うと。そういう時代になったのでいよいよ暴力を放っておけない時代になったのではないかなと思います。

須田
二元論では語れないかと。暴力をゲバルトと措定していくとそれは革命権も含むので「民のもの」として置いておきます。ただ民の横方向、民同士の暴力は統御すべき、あるいは統御できるものだと思っています。大黒さんが言ったように私たちの世代(60代)は、経済成長期あたりまでは物理的な暴力が社会にあったわけで、その後、それを統御していったわけです。今は違う形で暴力が出てきていますが、我々の歴史を見ていけば、その問題も統御できるのではないかと思います。

宮本
民族的、宗教的対立における民族浄化などの大量殺戮などを考えると、現実的には暴力を止めるための暴力の可能性はやはりあると思います。そういうことを考えると一概に善悪できるのは難しいと思うのですが、暴力を行使する際に、現代にはその行使することについての応答責任をしっかり果たさなくてはいけないと思います。そこで正当化や基礎づけがされない限り、むやみやたらに暴力を働くのは、現代では難しいのではないでしょうか。

日置
私はミャンマーと多少ご縁があり、関わっているのですが、2020年2月のクーデター以降、ミャンマーでは国軍が一方的に暴力をふるっていたわけです。それが最近、民主主義勢力の側、普通の人たちが武器をとって闘わなくてはいけないフェーズになったということが主張されています。今、彼らに「暴力で立ち向かうべきではない」とはやはり言えません。ただ、最終的には双方の暴力がなくなることが理想であるのは確かだと思います。

横田
他の宗教同様に、イスラームは暴力を認めて、それを内在している宗教です。問題はその使い方で、暴力をどのように制御していくかがイスラームの大テーマです。ジハードも暴力的なものだけでなく、言説などで説得するものもあると考える人も多いです。しかし、最高権威が実在しないイスラームでは思想の「自由市場」において武力行使を優先するジハード主義者も出てくるわけです。情報社会でいろんな人たちが参入できるということで、そのなかで過激派の言説が一定の支持を受けている。これがイスラーム世界の現実だと思います。

高馬
石川先生がおっしゃっていたように、人間の本能的な暴力があるとするのならば、やっぱり無くせないのではと思います。メディアで表されることで自分の暴力性を発散させることができるかもしれないので、そういう意味では現実の暴力を抑えるために「シュミラークル」だったり、表象のレベルで他者を傷つけない範囲で存在するのは現実の暴力をなくすことにつながるかもしれません。ただマネをするなど、表現をきっかけに現実の暴力が生み出されることもあるかもしれないので、そこは注意が必要ではありますが。

コーディネーター
もちろん物理的暴力は無くした方がいいと思いますが、ある種の抵抗の手段としての暴力まで否定しちゃだめなんじゃないのと思います。支配層は巧妙に暴力っぽく見せませんから、「暴力はだめだ」というイデオロギーが蔓延すると、結局従うしかなくなってしまいます。暴力を安易に否定するのは逆に、イデオロギーに乗ってしまうことになるのではという気もします。僕も答えが出ているわけではありませんが、暴力は情報社会において重要な問題であると、今日はみんなで認識し合えたと思います。