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「ガクの情コミ」学際研究ラボを開催しました

テーマ「暴力」

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社会的な現象としての暴力(宮本真也 教授)

社会学における「暴力」のマクロ的視点とミクロ的視点
社会学における「暴力」には、マクロ的視点と準ミクロ的視点で捉えることができます。マクロ的視点とは、人間の歴史において暴力行使がどのように変化しているかという視点です。たとえば社会的近代化の過程を、暴力抑制の過程として分析するN・エリアスの『文明化の過程』と、より人間らしさを目指す理性的変革と、潜在的野蛮化の絡まり合う過程と見るM・ホルクハイマーとT.Wアドルノによる『啓蒙の弁証法』が思い浮かびます。

次に、準ミクロ視点とは、社会理論はその対象を社会をつくる相互行為、あるいは相互行為の参加者としての主体、それらの前提となる制度を対象とするため、準ミクロ的といっても、相互行為のリアリティのレベルにとどまり、個人だけに注目することはありません。

では暴力との関係で私の関心がどこにあるのかというと、「承認」について関心です。以下、2つのアプローチを紹介し、暴力のトリガーとしての承認の欠如の話をしたいと思います。

「承認」の欠如への反応として抵抗が起きる

ビーレフェルト大学の「学際的紛争および暴力研究所」は、集団と関係する人間憎悪の症候に理論的な基礎を与え、社会的に問題となっている若者による暴力、極右過激派、そして民族的—文化的コンフリクトを説明するために「ビーレフェルト不統合アプローチ」という理路枠組みを提示しました。ここでの「不統合」は何かというと、物質的基礎、社会的承認、人格的無傷性の保証を、社会制度や共同体の機能が果たせない場合に生じるとされています。

このアプローチの基礎となる主張は、この不統合の経験と不安の程度で、コンフリクトの規模と強さ、そしてコントロール可能性が変わってくるということです。研究所代表のヴィルヘルム・ハイトマイヤーに従うと、「社会的構造次元」「制度的次元」「人格的次元」の3つの次元において、社会統合の不具合が暴力の形で生じます。

ここで語られている承認概念は、現代の社会的承認論の代表者でもあるアクセル・ホネットの理論とも一部重なっています。共通点は、承認の欠如への反応として抵抗が起きるという点です。

ホネットの承認論においては、他の人物を、道徳や論理、法律など社会的に共有される規範に従って受け入れる態度や行為を指します。こうした承認は人として受け入れるという基礎的な段階があった上に、さらに3つの形式に分かれています。親密な相手として受け入れる関係性、社会の一員として平等と自由を認め合う関係性、能力と資質を適切に評価し合う関係です。これら承認の在り方が重要なのは、それぞれの自己信頼や自己尊重、自己評価などの自己承認を、他者からの承認との照応関係から構築していくからです。

これらが欠如すると、社会集団の中で共有されている規範が損なわれていると当事者は感じ、承認の欠如が起きます。具体的な現象を挙げると、性暴力や性強制、体罰やいじめ、権利のはく奪、低賃金や社会的な再分配などです。そういったことを背景に起きた社会運動のことを、ホネットは「承認をめぐる闘争」と呼んでいます。それはたしかに暴力的に表れることもありますが、社会的近代化を進めてきた社会変革のポテンシャルではないかと見るわけです。

しかしここで本質的な問いが出てきます。社会的承認に満ちた正常な状態というのが、本当に暴力から自由な状態なのかということです。

承認の過程そのものに暴力が内在している場合も

ホネットの社会的承認論において、承認が主体化、社会学的には私たちの個人化と社会化を進めるなかで重要な役割を果たすことは明らかです。私が私らしさを帯びていくために、相互行為における承認の経験は乳児期までに遡ることができます。しかしこの私が私になる過程、つまり主体化の過程は、見方を変えれば、なにかに服従する過程に他ならない。ここで提起されている問題は、主体自身が客体そのものとして言語規範と物質的規範に服従されているのではという根本的なものです。ジュディス・バトラーに代表されているこの主張に従うと、個人を社会の一員にする過程、承認の過程そのものに暴力や権力が内在しているのではないかということです。一見すると正当に維持されている承認の秩序においても、暴力的な抑圧が潜んでいることがあり、体罰や女性蔑視のように後に明るみになって告発されることも私たちは歴史的に経験しています。そうした言説実践が完全に暴力に支配されているときに、その言説そのものに暴力が内在していることに気づけるだろうかという問いも出てきます。

私たちの生きる社会の言葉の実践、行為習慣化した行動に暴力が作用していて、私達が別様の私たちである可能性を締め出している可能性は否定できません。しかし、だからといって、承認の欠如に際して暴力の行使を確認し、告発することをあきらめていいわけではありません。批判的言説がバトラーが指摘する「主体化=服従化する」暴力から自由となる仕組みを説明しながら、他方で承認に介入する暴力の行使を暴露する二正面作戦が必要じゃないかなと思っています。暴力批判と言う課題には、本来その批判がいかに可能であるのかにまで明らかにすることが求められているのです。