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第2回「ガクの情コミ」学際研究ラボ開催!

「ガクの情コミ」学際研究ラボ テーマ「流行」

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流行と校則—逸脱としての「流行」/逸脱としての「校則」(鈴木雅博 准教授)

 (司会進行 横田貴之 准教授)

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流行と校則—逸脱としての「流行」/逸脱としての「校則」(鈴木雅博 准教授)



 さまざまな校則を調べてみると、校則は「流行」を「逸脱」と見なしていることがわかります。しかし近年では、校則自体がむしろ「逸脱」ではないか、と考えられる機会が多くなってきました。それは「ブラック校則」といった言葉に象徴的に表されています。このブラック校則をめぐって、長くさまざまな形で裁判が行われており、本発表では、まず、これについて論じていきます。次いで、ブラック校則を見直していくことが、最近の「流行」になりつつありますが、校則見直しを一過性の「流行」にしないために、どのようなことが考えられるかについて考察したいと思います。
校則は「流行」をどう見ているのか?
 「全国校則一覧」(https://www.kousoku.org/)というウェブサイトがあります。ここには主に東日本を中心に1,100校(資料作成時)の学校の校則が登録されています。ここで「流行」と検索をして、どのぐらいヒットするか試してみると、全部で115校がヒットします。つまり、1割ぐらいの校則の中で「流行」という言葉が使われていることになります。
 では、どのようにそれが語られているのでしょうか。例えば、東京都立府中西高等学校の校則では、「清潔感のある頭髪をし、流行に走らないこと(パーマをかけたり、脱色染色など手を加えてはならない)」と記されています。続いて山梨県立山梨高等学校の校則では、「服装や頭髪等の身だしなみは高校生らしく清楚にし、いたずらに華美にはしったり、流行に流されたりしてはならない」との記載があり、同じく山梨県の都留高等学校では、「頭髪はみだりに流行を追うことなく、高校生らしく質素であること」と書かれています。茨城県立太田第一高等学校の校則では、「校訓『至誠 剛健 進取』の精神に則り、華美をさけ、流行に惑わされず、常に簡素・清潔・端正を旨とし、生徒としてふさわしい服装をする」といった具合です。
 つまり、校則は、「流行に惑わされない、流されない、みだりに流行を追うことなかれ」といった形で流行を捉えているとまとめることができます。やはり、校則は「流行」を「逸脱」として見ていると言えるでしょう。古くから「服装の乱れは心の乱れ」といったことが言われてきましたが、「服装の乱れ」とは、ある意味で、その時々の流行を追った服装や着こなしのことであり、それらが教師から問題視されてきたことが細かな校則が制定されてきた背景にあるわけです。
逸脱としての「校則」=「ブラック校則」
 しかし、冒頭にお話ししたとおり、近年では校則の方が「逸脱」ではないかという指摘が出てきています。一般社会から見れば明らかにおかしい校則や生徒心得、学校独自ルールなどは「ブラック校則」と呼ばれ、広く人口に膾炙(かいしゃ)する状況に至っています。
 このようなブラック校則の例としては、「下着の色は白でなければいけない」とか、「黒髪直毛でなければいけない」、「マスクは白」といったもの、あるいは、コロナ感染拡大の初期のころには、「マスクはアベノマスクをしてきなさい」という謎ルールが校長先生から伝えられた、などといったこともありました。ほかにカーディガン禁止ですとか、ツーブロック禁止という校則もあります。
ツーブロックに関しては、2020年の東京都議会でも話題になりました。「なぜツーブロックは駄目なのでしょうか」という都議の質問に対して、教育長は「外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがございますため、生徒を守る趣旨から定めているものでございます」と答えています。つまり、ツーブロックにするとヤンキーとかに絡まれたりするというのです。
校則からの/流行への自由:校則裁判 大阪黒染め訴訟 熊本玉東中丸刈り校則訴訟
 次に、校則に関連する裁判について見ていきます。これまで、「校則からの自由」、あるいは校則から自由になって流行の髪形をしたいということを含めた、いわば「流行への自由」を求める形で、法廷闘争が展開されていきました。最近、注目された裁判として、大阪府立高校に対する黒染め訴訟というものがあります。これは、地毛が茶色い高校生が学校から黒染めを強要され、それを契機に不登校になったことに対し、大阪府を相手どって訴訟を起こしたものです。この訴訟は海外でも報道され、各界の著名人も声を挙げるなど、多くの注目を集めました。
 髪形がなぜ大きな問題になるのかというと、学校が規定した髪型によって、私生活を含め24時間拘束されてしまうからです。服装なら家に帰って着替えることができますが、頭髪は家に帰って色や長さを変えるということができません。頭髪は、個人の自由や自己決定権に深く関わるものであり、頭髪規制を巡っては、これまでも裁判で争われてきました。 
校則制定目的とそれへの反論─熊本玉東中丸刈り校則訴訟
 その初期の例として、40年近く前になりますが、1985年の熊本玉東中丸刈り校則訴訟というものがあります。中学校の男子生徒およびその保護者が、丸刈り校則は基本的人権を侵害し憲法に違反するとして、校則の無効および損害賠償を求めた裁判です。どのようなことが争点になったのかを、学校が挙げる校則制定の目的に対する原告の反論という組み合わせで見ていきたいと思います。
 まず学校側が「中学生らしさを保つために丸刈りが必要だ」と主張したのに対し、生徒・親は、「丸刈りが中学生らしいという社会的合意があるわけではない」と反論しました。次に、学校側が「質実剛健の気風のため」と主張したのに対し、生徒・親は、「そのことと頭髪とは何の関係もないではないか」と反論しています。続いて、「丸刈りだとスポーツに便利だ」と学校側が述べれば、「いや、スポーツ選手の多くが長髪だ」と反論し、「清潔さや衛生を維持するための丸刈りだ」と主張すれば、「丸刈りにしたからといって清潔が保たれるわけではない」と答えます。また、「長髪になれば髪の手入れに時間がかかり、遅刻が増える」という主張には、「女子生徒は長髪ですが、そんなことは特に問題になっていない」と反論しています。さらに、「人間関係の円滑を保つため」という主張に対しては、「他人の異質性を受け入れることが重要であって、校則は髪形の異なる者を許容しない風潮を助長するので、かえってむしろ人間関係においては問題があるのではないか」との反論が述べられました。
 「服装の乱れは心の乱れ」の話ではないですが、「非行の兆候を早期に発見するために一律に丸刈りにしておくことが有効だ」という主張も為されました。これは「少しでも丸刈りから逸脱していくことがあれば、それは非行へとつながっていくのだ」という理屈です。それに対しては「丸刈りを強制していない学校でも学校の維持運営は正常に行われているではないか」という反論がなされました。実際、この玉東中学の隣の中学は長髪可だったのです。「隣の中学がよくて、なぜ俺たちだけ『丸刈りでないと非行に走る』というようなことを言われるのか」というわけです。
地裁はどう判断したか
 これらの論点について、地裁では、どのような判断が下されたのでしょうか。まず、そもそもの話なのですが、判決では原告は敗訴しています。この中学生ならびにその保護者は要求を認めてもらえなかったのです。敗訴の論拠は、「原告適格」がないということです。つまり、裁判が進むうちに生徒は中学校を卒業してしまいました。そうすると「あなたはもう中学生じゃないんだから、校則の無効を訴えても、何の利益もないですよね」ということになり、原告としての資格がない、訴えの利益がないということです。
 他方、賠償についての訴えに関連して、判決文では先に述べた個別の項目について、次のように言及しています。「確かに、原告ら主張のとおり、丸刈りが、現代においてもっとも中学生にふさわしい髪形であるという社会的合意があるとは言えない。スポーツをするのに最適とも言えない。丸刈にしたからといつて清潔が保てるというわけでもない。髪形指導をしなくても種々の弊害が生じると言い得る合理的な根拠は乏しい。頭髪を規制することによって直ちに生徒の非行が防止されるとは言えない。長髪を許可する学校も増えつつある。本件校則の合理性については疑いを差し挾む余地のあることは否定できない」。ここまでは原告の主張を認めるような内容です。
 ただし、ここから「しかしながら」という形で論理が反転していきます。「丸刈は、今なお男子児童生徒の髪形の一つとして社会的に承認され、必ずしも特異な髪形とは言えない。校則には、校則に従わない場合の措置についての定めがなく、原告に対しても処分・指導は行われていない」。この処分に関する部分が、中学校における校則裁判で勝訴するのが難しいポイントとなります。髪形で違反した、服装に違反したといっても、公立中学校においては、停学・退学という処分が行われることはありません。この子も実際に普通に登校して卒業しました。したがって、回復すべき不利益がないということになってしまうわけです。
 判決文では「丸刈の社会的許容性や本件校則の運用に照らすと、丸刈を定めた本件校則の内容が著しく不合理であると断定することはできないというべきである」と述べられています。「社会的許容性」というのは、この当時、丸刈りにしている中学校が他にもあるので、社会通念に照らして、「丸刈りが極端におかしいことではない」というものです。そして、最終的には「校則が適切であるかは、実際に教育を担当する者の専門的、技術的な判断に委ねられるべきものである」として、丸刈り校則についても専門家である校長・教師が判断したものであり、教育目的に関連しているし、社会通念に照らしも著しく不合理とは言えないから、違憲ではないとの判断が下されました。
 しかし、教育の専門家=校長・教師が掲げた丸刈りの教育的意義に関する主張については、判決でも、その大半に疑義が呈されていました。そういう状態にありながら、校則の適切性は教育の専門家の判断に委ねられるという形で、校長・教師に信任されてしまうのは一体どういうことなのだろうか、と疑問に感じざるを得ません。「著しく不合理」でない限り、教師が定めた校則は「適切」になるのだろうかという疑問が残るわけです。
大阪黒染め訴訟判決
 次に、最初にお話しした大阪黒染め訴訟の判決について確認していきたいと思います。まず、頭髪校則については「違法と認めず」ということで、この元女子生徒の主張は受け入れられませんでした(2022年6月15日最高裁にて原告側の上告が退けられた)。そのロジックは、「当該校則は、生徒を学習や運動等に注力させ非行を防止するという意味で、教育目的に関連しており、社会通念に照らしても合理的だ」というものでした。「黒髪に染めさせる指導なんてとんでもない」という意識はまだ一般化していないということです。もちろん、原告側は「茶髪に対する社会的認識は変容しているのではないか」と訴えていたのですけれども、裁判所は、「社会一般の認識の変化は確かにあるけれども、直ちに本件校則の目的の正当性、内容の合理性に対する判断を左右するものではない」との判断を示しました。
 高校の場合のもう一つの難しさは、「君が選んでここに入ってきたんじゃないのか」という主張が成り立つところです。しかし、「選んで入ったのだから、有無を言わさず、学校の言うことを聞かなければならない」というのもおかしな話です。その高等学校のメンバーである以上は、生徒にも自分たちの所属する共同体について意見を表明する権利が当然認められてよいはずです。「校則について理解して入ってきた」という理由で、すべての議論が閉ざされてしまうとしたら問題があります。
 ただし、本件に関しては、当初、「生徒の地毛が茶色なのに黒染めを強要された」と報道されていたのですが、地裁ならびに高裁では、当該生徒の地毛が茶色であったことについては事実として認定されなかった点には留意する必要があります。学校側は当該生徒の地毛が黒色だと判断し、黒色に染めるように指導を行ったと主張し、原告側と対立していましたが、実際にどうだったのかは、当事者の主張が分かれており、判断が難しいところだと思っています。
 いずれにしても、黒染め訴訟の判決からは、玉東中の判決と同じように、頭髪についての自由を司法の場で認めてもらうのは非常に難しいことが確認されたわけです。
「ブラック校則」見直しという「流行」
  他方で、黒染め訴訟をきっかけにして、管理教育的な校則への注目が高まっていきました。例えば、「地毛証明書」は都立高校の約6割が導入していたのですが、髪色の明るい生徒に、本当に子どものころからその色なのかを証明することを求め、子どものころの写真も一緒に提出させる場合もあり、こうした指導が問題視されました。また、「下着が白でなければいけない」といった規定は、やはり問題があるのではないかといったところから、ブラック校則を見直そうという社会的な動きが展開していきました。
 その一つに、2019年にヘアケア商品のブランドであるパンテーンが展開した「♯この髪どうしてダメですか」という広告キャンペーンがあります。これには数多くの反響があり、さまざまな広告賞も受賞しました(グッドデザイン賞 https://www.g-mark.org/award/describe/51071 など)。
 また、「ブラック校則をなくそう!」(http://black-kousoku.org/)というウェブ上のプロジェクトでは、署名活動が行われ、2019年8月に文部科学省に対して6万筆超の署名を提出しました。他にも、公立高校教諭らが署名を集めて文部科学省に提出したり、さらには、NPO団体が高校とタイアップして校則の見直しを進めていくプロジェクト(https://rulemaking.jp/)が取り組まれるなど、さまざまな形で校則の見直しが進みつつあります。
進む?「校則見直し」
 それで「めでたしめでたし」ということになるのかというと、事はそう簡単ではありません。例えば、神戸市の場合で考えてみると、ツーブロックやポニーテールにすることをまだ半分の公立中学校が禁止しているという見方もできるわけです。
 校則と「流行」の関係に関しても、その見方は依然として変わっていません。大阪府の泉佐野市の公立中学校の頭髪に関する校則改定がウェブに出ていましたので、これを見てみましょう。
 (参考)
 
 改定後の校則のみが出ていて、改定前がどのような内容なのかはわかりませんが、改定後の頭髪規程には、「頭髪は、中学生らしい清潔な髪形にし、むやみに流行を追わない」とあります。やはり流行は統制の対象として扱われています。「整髪料は使用しない。毛染め・脱色・パーマ・カールなど特別な髪形をしないこと。奇抜な髪型は禁止。指示があった時においてはくくること」等々と書いてありますが、これは、令和4年4月に改定されたものです。おそらくは、子どもたちの意見も聞いて改定されたとは思うのですけれど、やはりもう少し自由化できないものだろうか、と外から見ると思ってしまいます。
校則見直し、その後に……
 これまで見てきたように、確かに細かい規程をなくして、校則が見直されていく例もあるのですが、その後にどのような指導が待っているのかについても見ていく必要があります。ここで、私が調査した中学校について紹介したいと思います。この中学校の校則では、服装や所持品について、「学校生活にふさわしいかどうか自分なりに判断してください」と記載されていました。そして「学校生活にふさわしいかどうか判断する視点」として、「機能的で、活動的であるか」「衛生的で、清潔感があるか」「質素で、無駄なかざりはないか」「華美ではないか」と表記されていて、特に細かいきまりはありませんでした。
 しかし実際には、「バッグは黒でなければいけない」とか、「下着は白でなければいけない」といった指導が行われていたのです。例えば、ブラウスの下に水色のキャミソールを着ていると、それを見て、先生は「ちょっと、それ派手じゃないの?」と指導し、生徒が校則にあるように、「自分で判断したんです」と反論したらどうなるのでしょうか。この時、先生は「あなたの判断は間違っている」といった具合で指導を継続していくのです。
 このような指導の根底には、「校則じゃないからやらなくていい」のではなく「“校則じゃなくてもやることができる”のが理想的な生徒、そこへ導くのが教育だ」という規範と、「“校則だから指導する”のではなく、“校則でなくても共通理解で指導する”のがまとまりのある学校組織だ」という規範があるのです。
 このような規範があると、校則そのものが見直されても、実際の指導はあまり変わらないことになってしまいます。
「校則見直し」、何が問題か?
 他方で、校則の見直しは非常に「コスパ」が悪いという問題もあります。生徒がアンケートをとったり、時間をかけていろいろな取組みをしたけれども、蓋を開けてみたら、ほとんど変更が認められなかったという話も耳にします。あるいは、ここで見たような校則見直しが一時的な流行に終わってしまうおそれもあります。さらには、ブラック校則をせっかく見直しても、実際にはブラックな指導が継続している、そういった懸念もあります。では、どうすればよいのでしょうか。
校則見直しを「流行」で終わらせないために
 校則見直しを「流行」で終わらせず、実質をともなったものとするためには、学校を人権尊重と民主主義の場にしていくことが必要です。具体的には、個人の自己決定権を尊重しつつ、校則を変える仕組みに生徒を組み込んでいくことが大切になってきます。こうした取組みには、既にいくつもの例があります。長野県立辰野高等学校では「三者協議会」といって、保護者と生徒、それから学校側の三者が校則を含めてさまざまな協議をしています。
 その源流には、フランスにおける生徒・保護者による学校運営参加があります。フランスでは、生徒が学校管理評議会といった場に代表を送り出して、生徒の代表、保護者の代表、教員の代表その他が校則を含めた学校の諸課題について決定権を持って審議に臨んでいます(大津尚志「フランスにおける生徒・父母参加の制度と実態─市民性教育にも焦点をあてて」『武庫川女子大学大学院 教育学研究論集 第 7 号』、2012年所収)。これは、子どもに単に意見表明をさせて終わってしまうのではなく、しっかりと決定に関与できる仕組みだと言えます。こういった制度を整えていくことが、校則の見直しを流行に終わらせないためには大切なことではないかと思います。
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