文学部紀要
「文芸研究」総目次(第141号〜第150号)
第150号(2023年3月26日)特集 国際読書会シンポジウム「辺見庸『1★9★3★7』を国際的に読む」—世界から見た日本における加害の記憶—
王 中忱 | 戦後派からの問い 冷戦後への問い —辺見庸の『1★9★3★7』と堀田善衞の『時間』との間テクスト性について— |
ギヨーム・ミュレール | 「家系物語」の視点からの『1★9★3★7』 フィクションを基に歴史を語る |
セバスティアン・マスロー | ドイツの戦争体験から『1★9★3★7(イクミナ)』を読む |
趙 秀一 | 出来事を自分のものにするための想像と遅読 —辺見庸『1★9★3★7(イクミナ) 』を読む— |
岡本 和子 | 歌に抗う —辺見庸『1★9★3★7(イクミナ) 』における「孤独に自身に問う」姿勢について |
竹内 栄美子 | 病理の剔抉 —辺見庸『1★9★3★7』が問いかけるもの |
谷口 亜沙子 | 『1★9★3★7』私記—「殺りく」と「殺戮」のあいだで— |
根本 美作子 | 沈黙を突き破る |
朱 宇正 | 小津安二郎と戦争 再考 —『秋刀魚の味』のトリスバー・シーンを中心に |
高桑 和巳 | 「脂瞼」について 辺見庸『1★9★3★7』における芸術的非論証性 |
新本 史斉 | 手袋のなかの手を描くための言葉—『1★9★3★7』をヨーロッパにおける文化的記憶の諸形式と読みあわせる— |
第149号(2023年2月28日)
田母神 顯二郞 | ジャネの心理療法(下)─ベルクソンとジャネ(13)— |
生方 智子 | 越境者としての〈子ども〉—日露戦争後の文壇における空想の行方と「お伽噺」の展開— |
新本 史斉 | スイス建国神話を掘り崩す,苦痛から生まれる言語—ヘルマン・ブルガー『人為の母』におけるレトリックの諸相— |
井上 優 | 〈研究ノート〉木下順二とシェイクスピア(2)—一九五六年の木下訳『ハムレット』をめぐって— |
松尾 ひかり | リブレット改訂に見られるミヒャエル・クンツェの意図—ウィーン版『エリザベート』(2012)における楽曲“Rond-Schwarzer Prinz”の挿入をめぐって— |
久保田 俊彦 | 英国 Englicious プログラムの文法記述 —「節」の場合— |
Marina Arashiro | Pitch Movement on Pre-nuclear Stressed Syllables in Welsh English: Generational Differences |
西浦 徹 | ジョージ・ゴードン・バイロンからハーマン・メルヴィルへ—メルヴィルの「ベニート・セレーノ」における「海賊」と「ゴルディオスの結び目」— |
福間 具子 | 羊から豚へ—ローベルト・メナッセ『首都』論— |
竹内 栄美子 | 〈研究ノート〉『AFRO-ASIAN WRITINGS』『LOTUS』総目次—アジア・アフリカ作家会議における文学雑誌の役割— |
小島 久和 | 翻訳 マルシリオ・フィチーノ著『プラトン神学 霊魂の不死性について』(27)— 「第十八巻」第八章~結論— |
第148号(2022年9月29日)
田母神 顯二郞 | ジャネの心理療法(上)─ベルクソンとジャネ(12)─ |
小野 正弘 | 「鼻が高い」考 |
内村 和至 | 〈研究ノート〉萩原乙彦筆写『志士清談』について |
渡辺 学 | ドイツ語表現の特性─その「文化性」と「感情的意味」に着目して─ |
第147号(2022年3月26日)特集 近さと遠さ
木村 淳也 | 『常陸国風土記』の遠近法—「俗」表現が志向する「常陸」の姿— |
西本 香子 | 『うつほ物語』「忠こそ」巻、一条北の方と橘千蔭の「年齢の隔たり」 |
立野 正裕 | 近くて遠い道程 |
伊藤 龍哉 | 神々の痕跡—戸嶋靖昌 画《冬の庭》の光— |
新本 史斉 | 翻訳者たちのヨーロッパへ—ファティ・アキン、多和田葉子における彼方と此方の出会い方— |
杉山 春子 |
パリ発ロシア文学と『武蔵野』—あるロシア・ジェンヌの回想—
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伊藤 愉 | 近くて遠い音—ロシア・アヴァンギャルド演劇の音響実験— |
井上 優 | ヴェローナとマントヴァの間の〝距離〟—『ロミオとジュリエット』をめぐって— |
矢内 賢二 | 燕枝という噺家がいた |
内村 和至 | 文化の遠近法(パースペクティヴ)—『吾輩ハ猫デアル』中の禅語をめぐって— |
佐伯 和香子 | 異界の入り口 |
中江 桂子 | カプセル人間の二一世紀—オンラインの日常から考える— |
生方 智子 | 「近さと遠さ」の近代的想像力—地理的世界から幻想空間へ— |
越川 芳明 | 南部の町で謎を解く |
Noda Manabu | Distant Past, Distant Future, and Covid Proximity: From Japanese Theatre Scene before and after the Corona Breakout |
岡本 和子 | ふさがれた記憶への旅—ドイツ経由で日本に帰る |
佐藤 研一 | 劇作家レッシングとJ. M. R. レンツの遠近 序説 |
Misako Nemoto | Near and far away |
安原 伸一朗 | 近さと遠さ—見えるようになったこと、見えないままのこと— |
Kyoo Lee | Tympanic, not Panic: A Melonpandemicogitation 2021 |
第146号(2022年2月26日)
田母神 顯二郎 | ヒステリーから精神衰弱へ(下) —ベルクソンとジャネ(11 )— |
川野 真樹子 | 歌舞伎版『ハムレット』におけるオフィーリアの狂気の変遷─山岸荷葉『沙翁悲劇はむれつと』(一九〇七)の大阪上演を中心に─ |
金 孝珍 | 水府世界から龍宮世界へ─六朝の志怪から唐代の伝奇を中心に─ |
井上 優 | <研究ノート>木下順二とシェイクスピア─解題『明治大学とシェイクスピア』展(一)─ |
新本 史斉 | 仲介者,読者,そして作者—カール・ゼーリヒ『ローベルト・ヴァルザーとの散策』を翻訳論的視点から読む— |
奥 景子 |
福田恆存の『現代の英雄』に見られる喜劇観—『マクベス』の転化—
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第145号(2021年9月29日)
田母神 顯二郎 | ヒステリーから精神衰弱へ(上) —ベルクソンとジャネ(10 )— |
藤﨑 景 | 新派における益田太郎冠者の仕事 |
伊藤 愉 | 翻訳 ナタリヤ・エヴゲニエヴナ・セムペル=ソコロヴァ著 「夢見る顔と向かい合って:土方与志の思い出(一九三三-一九三七年)」『肖像と風景 二〇世紀の個人的回想』モスクワ,二〇〇七年 |
内村 和至 | <研究ノート>『古今名婦伝』をめぐって |
井戸田 総一郎 | 井戸田総一郎教授御定年退職にあたって (略歴・業績書) |
スザンネ・シェアマン |
ウィーン大学との共同シンポジウムとドイツ語圏大学との協定
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松澤 智子 | 井戸田総一郎先生のもとで学ぶ喜び |
神山 彰 | 神山彰教授御定年退職にあたって(略歴・業績書) |
熊谷 知子 | 「神山ゼミ」の思い出 |
村島 彩加 | Love it!! |
武田 清 | 武田清教授御定年退職にあたって(略歴・業績書) |
豊間 梨乃 | 武田先生のご退職に寄せて |
中野 正昭 | 武田清先生・先輩のこと |
井戸田 総一郎 | 文体と読者—ニーチェの短詩「ご招待」を読む— |
Tomoko Fukuma | Literarische Abrechnung mit der Vergangenheit —Über zwei Werke der zweiten Generation vor dem „Ende der Zeitzeugenschaft“— |
奥 景子 | 福田恆存の『有間皇子』に見られる悲劇観—『ハムレット』からの乖離— |
小島 久和 | 翻訳 マルシリオ・フィチーノ著 『プラトン神学 霊魂の不死性について』(26)—「第十八巻」第一章~第七章— |
第144号(2021年3月26日)特集 日本語
小野 正弘 | オノマトペのニュアンス付加 |
田口 麻奈 | 日本語から日本語へ—伊東静雄「夏の終」をめぐって— |
許 哲 | 一在日朝鮮人研究者にとっての「日本語」 |
須永 恆雄 | 「角笛」と「大地」と—マーラー歌詞対訳の心残り— |
根本 美作子 | あくがれいずる |
クリス・ベルアド | ある翻訳家の日本語事件簿 |
伊藤 真紀 | 舞台に立つ日本語—雲門舞集(クラウド・ゲート・ダンス・シアター)の『行草』より— |
武田 清 | チェーホフ戯曲翻訳の日本語 |
伊藤 氏貴 | あいまいな日本語の私 |
内村 和至 | 有明の主水 |
佐伯 和香子 | まつとしきかば—まじないの歌— |
能地 克宜 | 室生犀星の日本語表現 |
八木下 孝雄 | 日本語の中の外国語 |
黒島 規史 | 日本語諸方言と韓国語との意外な共通点:群馬方言を中心に |
渡辺 学 | 日本語の揺れとあいまいさ—ドイツ語との対照をちりばめて— |
スザンネ・シェアマン | 言語と映画 |
大山 浩太 | 翻訳の効能 「蘇生」、「再生」のメカニズム |
谷口 亜沙子 | 日本語でしゃべるということ |
笠間 直穂子 | 跳躍、排除、転覆—日常会話における日本語の使用法をめぐって— |
第143号(2021年2月28日)
生方 智子 | 日露戦争後文学における「世界」への参加—正宗白鳥『何処へ』における「余計者」の再構成— |
落合 修平 | 芥川龍之介の葛西善蔵・志賀直哉評価をめぐって─「詩的精神」についての一考察─ |
尾山 真麻 | 太宰治『お伽草紙』論—「瘤取り」を中心に— |
柳澤 広識 | 志賀直哉「憶ひ出した事」論 —記憶による「私」の差異化— |
田母神 顯二郎 | ジャネとフロイト,最初の論争─ベルクソンとジャネ(9)─ |
大林 のり子 | ラインハルトの『マクベス』(一九一六年)演出台本における非言語表現 |
内村 和至 | 〈研究ノート〉服部撫松編『京華春報』について |
竹内 理矢 | 黒人女性ナンシーの苦悩—「あの夕陽」,人種的暗喩─ |
岡本 和子 | 住むことのできない街ベルリン—近代ドイツ文学を手がかりに─ |
第142号(2020年10月8日)
井上 優 | 岩田豊雄「演劇皆無に對する感想」(一九三三)を読む |
生方 智子 | 争点としての「空想」—自然主義文学の出発期における想像力の再編— |
田母神 顯二郞 | 『ヒステリー患者の心の状態』(下)─ベルクソンとジャネ(8)— |
神山 彰 | エッセイ 和泉キャンパス第二校舎の時代 |
宮越 勉 | 宮越勉教授御定年退職にあたって (略歴・業績書) |
宮越 勉 | 我が文学研究の道のり・素描 |
木村 愛美 | 待つ |
柳町 時敏 | 柳町時敏教授御定年退職にあたって (略歴書) |
佐藤 義雄 | 柳町時敏先生を迎える |
伊藤 氏貴 | 源氏とコントラバスとを繋ぐもの |
Teruko Kajiwara | Walt Whitman’s Creation of the Fluid Body of a City and Citizens |
Marina Arashiro | Pre-nuclear Pitch Movement in Female Speech of Welsh English: An Inter-Dialect and Intra-Dialect Investigation |
Michael Mandelartz | Literaturwissenschaft und Rechnen. Kritik der Digital Humanities |
阪東 知子 | ホーフマンスタールの『オイディプス王』について —翻訳と創造— |
小島 久和 | 翻訳 マルシリオ・フィチーノ著 『プラトン神学 霊魂の不死性について』(25)— 「第十七巻」第四章 — |
第141号(2020年3月26日)特集 映像・画像
竹内 栄美子 | 版画と民衆運動 —魯迅から上野英信へ— |
宮越 勉 | 川端康成「伊豆の踊子」の映画化作品をめぐる私感 |
山﨑 健司 | 萬葉歌における「映像」の発見 |
石澤 一志 | 佐竹本三十六歌仙絵小考—歌仙絵と文字— |
立野 正裕 | 二枚の写真から 満州をめぐる記憶 |
伊藤 龍哉 | Let Truth Be The Prejudice —ユージン・スミスの苦悩と歓び— |
井上 優 | The Picture of William Shakespeare |
武田 清 | 映像のコラージュ |
中野 正昭 | G・V・ローシーとローヤル館の絵葉書 |
村島 彩加 | 夢の中に君がいる —宝塚ブロマイド屋回想録— |
伊藤 氏貴 | 美術に潜む文字 —「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」展の小林エリカをめぐって— |
内村 和至 | 金瓶大黒今紫 |
相良 剛 | 動画する人間の行方 —教室の断片からー |
中江 桂子 | 藤田嗣治、地を泳ぐ —一九三〇年代の遍歴と壁画『秋田の行事』— |
竹内 理矢 | 『ミッドナイト・イン・パリ』論 —「失われた世代」,雨と祝祭— |
塚田 麻里子 | earth on earth —映画『アナザー・カントリー』を中心に— |
金子 椋太 | 痴漢撲滅キャンペーンにみる暴力表象 |
スザンネ・シェアマン | 山田洋次の最初の長編映画『下町の太陽』(1963年) |
松澤 淳 | ホルスト・フォン・メレンドルフ —優しい曲線と第三帝国— |
小澤 京子 | 活人画と映像のあいだ —その困難さをめぐって— |
根本 美作子 | イメージVSヴィジョン/三島対ブルースト |
福田 桃子 | アンナ・カリーナの声 |
森田 直子 | 長篇漫画の草創期におけるギュスターヴ・ドレ |