文学部紀要
「文芸研究」総目次(第111号〜第117号)
特集号<ドイツ文学>模倣と創造
第120号(2013年3月26日)
神品 芳夫 | ドイツ文学史における表街道と裏街道 |
橋本 孝 | グリム童話におけるポエジーの歴史的考察の意義 |
井戸田 総一郎 | 「未だ踏み入れらしきことなき軌道」—少年期ニーチェの詩作における模倣と創造— |
冨重 与志生 | "カール・フリードリヒ・フォン・ルーモール『料理術の精神』の語り手 —料理人ヨーゼフ・ケーニヒの悩み—" |
渡辺 徳美 | エルンスト・シュナーベルのフィーチャー『明日のような一日』 |
松澤 淳 | 新しい世界を「創造」する少女マンガ—その西洋と文学の「模倣」についての一考察— |
岡本 和子 | 「住む」、「歩く」、「書く」—ベンヤミンにおける模倣の身振り— |
福間 具子 | ロベルト・シンデルにとってのツェラン—その模倣の意義について— |
相原 剣 | マックス・ラーベの車輪の再発明—ワイマール期のシュラーガーを源泉として— |
大類 京子 | Freude, schöner Götterfunken! |
櫻井 泰 | トーマス・マンと「神話的同一化」—二つの「神話」をめぐって— |
江口 大輔 | J・J・ブライティンガー『批判的詩論』における「真理」と「真実らしさ」 |
Yusuke IDENAWA | Autobiographie als Nachahmung und Selbstreflexion in Stifters Die Mappe meines Urgroßvaters |
Michael Mandelartz | "Totengespräche in dunklen Kammern Paul Celans Engführung und Alain Resnais Nacht und Nebel oder: Versuch, Schöpfung auf Nachahmung zurückzuführen" |
第119号(2013年2月25日)
中野 正昭 | 浅草オペラにみるグランド・オペラ『ファウスト』上演の試み |
内村 和至 | 幕末期「万国旗本」をめぐる人々 |
宮越 勉 | 『暗夜行路』における主要脇役たちの物語—お栄・信行・直子— |
杉田 昌彦 | 宣長における上代研究の淵源—「道の学び」と源氏研究に通底するもの— |
日向一雅教授 ご退職にあたって(略歴・業績書) | |
袴田 光康 | 先生のカバン |
湯淺 幸代 | 恩師・日向一雅先生に寄せて |
永藤靖教授 ご退職にあたって | |
小野 正弘 | 永藤靖先生をおくる |
居駒 永幸 | 白き島影 |
吉田正彦教授 ご退職にあたって(略歴・業績書) | |
井戸田 総一郎 | 吉田先生の研究室 |
谷 健一郎 | 私の担任吉田正彦先生 |
川合高信教授 ご退職にあたって | |
玉井 崇夫 | 無事これ名馬—大学院時代の川合高信さん— |
小谷 奈津子 | 仏文学史の想い出 |
市川 孝一 | 高度成長期の若者文化—「太陽の季節」と太陽族ブーム— |
久保田 俊彦 | 同一作家の作品データ内における読点の示す情報 |
木村 章男 | "The Catcher in the Rye と原爆、あるいはホールデンは A Farewell to Arms と The Great Gatsby をどう読んだか" |
小島 久和 | "翻訳 マルシリオ・フィチーノ著『プラトン神学 霊魂の不死性について』(12) — 「第十一巻」(第一章~第四章) —" |
第118号(2012年10月31日)
堂野前 彰子 | 神武の来た道—丹と交易— |
武田 比呂男 | 因果と〈はぢ〉—『日本霊異記』をめぐって— |
金 任仲 | 新羅僧義湘と善妙の説話—『華厳縁起』を中心に— |
佐藤 義雄 | 千早町三十番地東荘はどこなりや—小熊秀雄と〈自由空間〉池袋— |
内村 和至 | <資料紹介>萩原乙彦の俗謡本(二) — 『言葉入りいきな都々一』— |
中野 正昭 | 書評 武田清『新劇とロシア演劇 — 築地小劇場の異文化接触』 |
久保田 俊彦 | コンコーダンサーからプロファイラーへ:コーパス検索ツールの変化 |
玉井 崇夫 | 〈研究ノート〉フロベールのプレイヤッド版『書簡集』卑見—「ペローの童話」をめぐって— |
小島 久和 | 翻訳 マルシリオ・フィチーノ著『プラトン神学 霊魂の不死性について』(11)— 「第十巻」 — |
第117号(2012年3月26日)
萩原 芳子 | 「読者」消滅の謎を追って—パスカル・キニャール論— |
日向 一雅 | 読書—私の場合— |
大石 直記 | 鷗外と〈子規の衣鉢〉—近代日本の亡失された水脈、或いは、〈読むこと〉の自由へ— |
杉田 昌彦 | 宣長の「読書」 |
堂野前 彰子 | 狂女のいる風景—柳田国男と久世光彦— |
吉田 遼人 | 言葉に、つまずく—素描・泉鏡花「春昼」連作の織り糸— |
梶原 照子 | さびしさ、せつなさ、愛おしさ—詩の味わい— |
塚田 麻里子 | 闇のなかにて—ラーゲルヴィスト作『バラバ』を読む— |
寺澤 由紀子 | 「お話の真実性」を感じ取る—ティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』— |
山本 恵美子 | アウト・オブ・プレイスに生きる—『斜陽』・『忘れられた日本人』・『人間の土地』のアクチュアリティ— |
坂井 達郎 | 耐えねばならないもの—『人間の土地』と『老人と海』— |
神品 芳夫 | ドイツの詩を読む |
恒川 隆男 | 読む、あるいは、言葉が言葉であるとき |
櫻井 泰 | 小説家トーマス・マンと英語 |
井戸田 総一郎 | 「僕は思わずギリシャ語でゲーテに語りかけるところであった!」—ヴァイマールの立像とハインリヒ・ハイネの言説— |
冨重 与志生 | 迷走とメルヘン |
福間 具子 | 「ずれ」の経験—詩を読むことについて— |
岡本 和子 | 幼年時代を読む—断捨離に抗して— |
合田 正人 | 「純粋想起」の解釈学 |
玉井 崇夫 | 遅読の効用—川端康成『雪国』再読— |
山出 裕子 | ケベックのアジア系女性文学に見られる「間文化主義」とエスニシティの変遷—ベトナム系作家キム・チュイの作品を例に— |
小谷 奈津子 | 《レクチュール》という言葉をめぐって |
神山 彰 | 見る読書・聴く読書—日本映画と歌謡曲の読書イメージ— |
武田 清 | 何度でも読みたい本 |
伊藤 真紀 | タルホの『明石』 |
井上 優 | 本は燃える |
大林 のり子 | 空白を埋める「読書」 |
市川 孝一 | 読書に最適な場所 |
柳町 時敏 | ドストエフスキーを読んでいた頃 |
佐伯 和香子 | 三つ子の魂 |
伊藤 氏貴 | 読書とその罪をめぐる随想 |
相良 剛 | 「活字離れ」断想 |
永藤 靖 | 日本の地霊(六)— 一宮巡遊記— |
内村 和至 | 萩原乙彦の俗謡本—大津絵二種— |
立野 正裕 | クリミア半島への旅—道の精神史 その四— |
第116号(2012年3月3日)
内村 和至 | 萩原乙彦の戯作類について |
永藤 靖 | 円環を飛翔する鳥たち |
宮越 勉 | 志賀直哉「濠端の住まひ」とその周辺—草稿「独言」とその比較検討を中心に— |
大石 直記 | 〈身を投げる女〉の表象—〈世紀転換期〉における再生する古伝承— |
田母神 顯二郎 | ピエール・ジャネと「フランス流無意識」—統合・解離・時間— 佐藤正紀教授ご退職にあたって 略歴・業績書 |
立野 正裕 | 揺さぶりをかける人—佐藤正紀さんの流儀— |
藤岡 亜由未 | 研究の樹 |
市川 孝一 | 戦後復興期若者文化の一断面—「アプレ犯罪」を中心にして— |
久保田 俊彦 | 著者同定指標としての読点の再考 |
大山 るみこ | D.H.ロレンス『息子と恋人』におけるウォルター・モレルの「孤立一疎外」表象の文体的考察 |
小島 久和 | 翻訳 マルシリオ・フィチーノ著『プラトン神学 霊魂の不死性について』(10)—第九巻— |
第115号(2011年10月29日)
内村 和至 | 萩原乙彦の俳諧活動について |
永藤 靖 | 若狭国・神宮寺の「お水送り」の周辺—水と火の祈り— |
堂野前 彰子 | 『古事記』と交易の道—小浜神宮寺「お水送り」から— |
金 任仲 | 西行における華厳思想と和歌 |
久保田 俊彦 | 言語学的文体論概説書における計量的手法 |
梶原 照子 | 散文が詩と出遭うとき—エドナ/ショパンの『目覚め』の綻び— |
小島 久和 | 翻訳 マルシリオ・フィチーノ著『プラトン神学 霊魂の不死性について』(9)—「第八巻」— |
神鷹 徳治 船田 想 |
『明清著名蔵書家・蔵書印』検索表 |
第114号(2011年3月26日)
根本 美作子 | 序 |
根本 美作子 (ダニー・ラフェリエール) |
帰還の謎(抄) |
ぼくは日本人作家だ(抄) | |
根本 美作子 (ナディヌ・ヴァスール) |
フランス語の授業(抄) |
フレデリック・ドナヴァン | マリー・ンディアイの2009年ゴンクール賞作品における語れることと語れないこと |
渡辺 響子 (イヴォンヌ・ゴガ) |
マルセル・プルーストと、ルーマニアおよびルーマニア人との関係 |
笠間 直穂子 | 照らし合う関係 マリー・ンディアイとクレール・ドゥニ |
管 啓次郎 | 島の水、島の火、島々 グリッサンのために |
小畑 精和 | ケベック文学の新しい潮流—アキ・シマザキを例として— |
山出 裕子 | 北米フランス語圏文学の歴史と動向—ケベックの女性文学に関する一考察— |
合田 正人 | 明日の哲学—ヒューム、スピノザ、ニーチェから多島海システムへ— |
下井 有子 | ドリュモンからセリーヌへ—反ユダヤ主義のレトリックに関する一考察— |
瀬倉 正克 | 樂水樓の書架 |
武田 清 | ディドロに演技論を書かせた女優たち |
立野 正裕 | ルーアン大聖堂にて—道の精神史 その三— |
セリーヌ・アダッド | 日本の町—無言の地形図、非現実化する空間— |
村松 真理子 | ガブリエレ・ダンヌンツィオの『聖セバスチャン』をめぐって |
小島 久和 | 翻訳 マルシリオ・フィチーノ著『プラトン神学 霊魂の不死性について』(8)—「第七巻」— |
永藤 靖 | 日本の地霊(五)— 一宮巡遊記— |
内村 和至 | 『温知風俗通』第十一号 |
第113号(2011年2月26日)
内村 和至 | 萩原乙彦の人物像—二人の女をめぐって— |
伊藤 氏貴 | 「私」との距離—ゼロ年代の文学状況 |
永藤 靖 | 常世世界の東漸—駿河国と黒潮の流れ— |
亀山照夫先生ご退職にあたって(略歴・業績書) | |
立野 正裕 | 生きることとみつけたり——亀山先生のこと |
大須賀 寿子 | 亀山照夫先生の思い出 |
津田洋行先生ご退職にあたって(略歴・業績書) | |
佐藤 義雄 | 縹緲たる虚空—津田洋行先生を送る— |
松下 浩幸 | 「先生」とは津田先生のことである |
恒川隆男先生ご退職にあたって(略歴・業績書) | |
櫻井 泰 | 恒川さんのこと |
永川 聡 | 思考への誘い—考え(させ)る人、恒川隆男— |
久保田 俊彦 | Wordbanksonline新インターフェースと文法研究 |
小島 久和 | 翻訳 マルシリオ・フィチーノ著『プラトン神学 霊魂の不死性について』(7)—「第六巻」— |
第112号(2010年10月29日)
神鷹 徳治 | 白居易の大集本の二つの書名について—『白氏文集』と『白氏長慶集』— |
永藤 靖 | 古代対馬と神々の交易 |
宮越 勉 | 「小僧の神様」を精読する—接近と隔絶の線対称構造分析を中心に— |
内村 和至 | 萩原乙彦研究序説 |
堂野前 彰子 | 古代日本文学における「墓」—その形見としての機能— |
加藤 紫苑 | 志賀直哉の放浪と自然体験—尾道・松江・大山・赤城・我孫子— |
小埜 裕二 | 書評 佐藤義雄著『文学の風景 都市の風景 近代日本文学と東京』 |
大山 るみこ | 文学テクストからマルチ・モーダルテクストへ —D.H.ロレンス『息子と恋人』における階級間格差表象をメディア変換の観点から考察する— |
小島 久和 | 翻訳 マルシリオ・フィチーノ著『プラトン神学 霊魂の不死性について』(6)—「第五巻」— |
根本 美作子 | 個人を巡る旅—パシェ,ミショー,ブーヴィエ— |
第111号(2010年3月26日)
緒言 | 演劇においては、ひとたび生まれたかたちはすべて死すべき運命をもつ |
佐藤 正紀 | 俳優の芸術を求めて |
神山 彰 | ダンスと髪と音楽と |
小笠原 愛 | ルース・セント・デニスの腕 |
中野 正昭 | 乱歩とラン子 |
藤岡 阿由未 | グランヴィル・パーカーの「あるべき演劇」考察 |
大橋 裕美 | 『ボルクマン』後の自由劇場 |
新沼 智之 | 俳優イフラントの演技の問題における試み |
佐久間 桃 | 「装い」の向こう |
土屋 康範 | ドラマ教育における即興劇の効用に関する試論 |
井上 優 | 『ハムレット』の不可能性 |
武田 清 | カチャーロフの演技論 |
恒川 隆男 | ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』に見られる演劇 |
Manabu Noda | Voice Made Visible: The Place for Voice on Stage in Noh and Robert Lepage's Lipsynch(2008) |
永藤 靖 | 日本の地霊(四) |