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定例研究会 2019年度

第1回 海外研究者から見た日本の少女文化とジェンダー研究

Overseas Researcher Views on Gender Studies and Shōjo Studies in Japan

2019年6月17日(月)実施

講師:デボラ・シャムーン氏



シンガポール国立大学日本学科准教授。アメリカ東海岸出身。
十代の頃に初期の日本漫画の翻訳に触れて研究の道を志し、カリフォルニア大学バークレー校でPhDを取得。現在はアジアのトップ大学であるシンガポール国立大学の日本研究科で日本のポップカルチャーを含む日本文化を教えている。
とくにジェンダー問題には造詣が深く、専門の科目を担当するほか、「Passionate Friendship: The Aesthetics of Girl’s Culture in Japan」の著書もある。 
報 告:藤本 由香里(明治大学国際日本学部教授)

デボラ・シャムーン准教授 デボラ・シャムーン准教授

今回の定例研究会では,明治大学研究者交流支援制度招聘プログラム(2019年度春学期申請者:藤本由香里)によって招聘された,シンガポール国立大学准教授のデボラ・シャムーン氏を講師としてお招きし,「海外研究者から見た日本の少女文化とジェンダー研究」というテーマでお話をいただいた。
シャムーン氏はカリフォルニア大学バークレー校でPhDを取得したのち,シンガポール国立大学日本学研究科で日本文学・日本文化を教えている。とくにジェンダー問題には造詣が深く,日本の明治~大正期の少女文化に注目した単著Passionate Friendship: The Aesthetics of Girl’s Culture in Japanもあるほか,同大学でジェンダー関連の授業も行っている。本講演では,少女文化やポップカルチャーのみならず,おもに江戸時代からの日本文化における男同士の愛・女同士の愛の表象とその構造,その後のさまざまな展開過程を,19世紀・20世紀における日本独自の近代化の経験と捉え,覇権的な西洋のセックス・ジェンダー観への挑戦・対比という視点から語っていただいた。
冒頭では,米国の人類学者イアン・コンドリーの“Love Revolution: Anime, Masculinity and the Future”(Recreating Japanese Menに収録)における,日本のオタク男性に着目することは,「男性性」を問い直すことにつながるという言説を引き,ジェンダー研究は女性を研究するだけでは不十分で,男性性の研究も重要であることが語られた。
日本の歴史的なクィア文化の研究が西洋的な見方とは違う新しい知見を開いてくれる例として,カナダの学者Mostowが企画・監修し,公開されたwakashu as a third gender(第3の性としての若衆)という展覧会とその解説の重要な部分が紹介され,江戸時代の若衆文化が男色を当たり前のものとしながらも,構造としては「大人の男性」なら性愛の相手に女性も男性も選ぶことができるという成人男性のヘゲモニーを前提としており,現在のセクシュアリティの自由とは基本的に違うことが指摘された。こうした文脈の中では,同じ男性同士の性愛と言っても,現代の用語であるゲイやホモセクシュアルという言葉ではなく,「若衆」「男色」といった歴史的に正確な用語を使う必要がある,との指摘は非常に重要である。
続いてAyako Kanoによる著作Acting Like a Woman in Modern Japan: Theater, Gender, and NationalismおよびL.スティックランドの宝塚の研究書に基づいた,歌舞伎・宝塚などの男性だけ・女性だけの演劇の研究へと進み,「ジェンダーはパフォーマンスである」とするジュディス・バトラーの言葉を紹介。しかし近代西洋文化においては,パフォーマンスとしてのジェンダーは国家を不安定にさせるものとして驚異とみなされたという。これに対し,日本文化においては,ジェンダーは常にパフォーマティブなもの,身体の性別とは別ものとして演じられうるもの,という潜在的な認識があったのではないか。この発見は,報告者にとって非常に興味深いものであった。
話題は宝塚から少女文化へと進み,とくにその中に見られる女性同士の強い絆に焦点が当てられ,Passionate Friendshipと題されたシャムーン氏自身の著作・研究の概要が紹介された。氏は,本田和子のいう「ひらひら」の美学を体現するものとして,1920年代・1930年代の少女文学雑誌から1970年代の少女漫画までを研究し,20世紀の少女文学とイラストレーションのナラティブ,美学的特徴を分析している。氏はまた,少女雑誌のテクストが少女たちにいかに語りかけ,いかにして読者コミュニティが形成されていったかを語り,少女達は女学校文化を背景として,自分たち独自のサブカルチャー,少女文化を作り上げていったと指摘する。これらの「少女だけのコミュニティで形成された少女独自の文化」はアメリカにはないものであり,その中で形成された「女性同士の情熱的な絆」もまた,今日のレズビアンとはまた別の文脈で捉えられなければならない。
しかし,こうした女性たちが作り上げた「女性同士の強い絆」の文化は,やがて谷崎潤一郎『卍』などに取り入れられ,川端康成においても,のちに中里恒子の代作だったことがわかった『乙女の港』,そして『美しさと哀しみと』にも援用されていく。その際,少女文化の当事者ではない男性作家たちは,自分たちが描けない「少女言葉」を作品に取り入れるために,谷崎は少女言葉を修正する役割の若い女性を雇い,川端はのちに作家・中里恒子となる少女の作品を自分の名前で発表した。「中里の作品に川端の名を冠することで,彼が彼女から奪ったものは,その言葉を話す主体としての位置だったのである」とシャムーン氏は指摘する。『卍』も『美しさと哀しみと』も男性監督の手で映画化されているが,その際にはさらに女性同士の関係は後景に退き,異性愛規範が強くなり,性的な記号としての女性の搾取が行われ,男性による少女文化のさらなる占有が行われた。この占有化の過程について,マーク・マクレランドQueer Japan from the Pacific War to the Internet Ageなども引きつつ,非常に詳しい分析がなされた。これらの一連の議論は,少女文化を近代日本文学・映画史の中に改めて位置付けなおす試みであり,これまでなされてきた少女文化のこうした矮小化や周縁化は,若い女性の問題や芸術的な貢献を無視するだけでなく,文学作品の理解をも不十分なものとする,とシャムーン氏は結論付けた。
約100名の聴衆が熱心に聞き入っており,その8割以上が,ジェンダーセンターの催しには初めて参加する人だった。英語と日本語で活発に質疑応答が行われ,閉会後も並んで質問する人が長い間途切れなかった。