Go Forward

特別講義・上映会 2013年度

2013年度実施分特別講義・上映会の成果につきましては『ジェンダーセンター年次報告書2013年度』(2014年3月31日発行)からもご覧になれます。(PDFデータにリンク)

特別講演会「テクスチュアル・ハラスメント」

2013年12月13日(金)実施



【主催】明治大学情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター
【日時】2013年12月13日(金)18:00~20:00
【場所】明治大学駿河台キャンパス リバティタワー16階(1166教室)
【参加人数】約20名
【講演者】小谷真理
講師略歴:小谷真理客員教授
明治大学情報コミュニケーション学部客員教授。SF & ファンタジー評論家。1991年に共訳書ダナ・ハラウェイ他『サイボーグ・フェミニズム』で第二回日本翻訳大賞思想部門を、1994年に著書『女性状無意識』で第15回日本SF大賞を受賞。小説、マンガ、アニメ、ゲーム、映画とメディアを問わないSF作品のフェミニズム批評による読解で知られる。2001年にティプトリー賞の姉妹賞である日本センス・オブ・ジェンダー賞を創設し、ジェンダーに視点を向けたSF・ファンタジー作品に光を当てる活動にも貢献する。
報告:小谷 真理(明治大学情報コミュニケーション学部客員教授)
 クリエーターが女性であった場合、作品評価に作者の性差は反映されるものだろうか? つまり、その作品が、男が作ったものか、それとも女が作ったものかで、作品評価が変化するものだろうか?
 通常、評価とは作品に向けられるものであるから、それがどんな作者の手になるものであろうと関係がないはずだ。ましてや、その作者が男か女かなどという性差的言説からは自由であると考えるのが普通であろう。しかしながら、いまもなお、作品評価をめぐって、性差から完全に逃れる事は出来ないらしい。しかも、そこに性差別的偏向という問題が含まれる。
 本講演の演題であるテクスチュアル・ハラスメントとは、1982年にイギリスのフェミニスト文学批評家メアリ・ジャコウバスが作ったタームであり、第一義的には「文章上の性的嫌がらせ」のことをさす。基本的には、女性作家の作品を評価するのに、「あの作品は(女性が書いているから)よいものではない」と作品の価値判断に性差観が混入したり、「あの作品は(女性である)本人の手によるものではない」と女性作家自体の作家的アイデンティティを矮小化したりする、紋切型の表現である。本質は単純だが、さまざまなバリエーションがあり、その量が膨大であるため、女性クリエーターのイメージ全体の低下、転じては風評被害につながっている。
 講演者がこの問題に興味を抱くことになったのは、1997年に講演者自身に、まさにこの問題が降りかかってきたからであった。
 1997年10月に刊行されたサブカルチャーの事典『オルタカルチャー』に、講演者の名が夫の名前の筆名と書かれ、男性と断定された。そして、この事件は、講演者自身を原告として裁判に発展した(平成10年(ワ)1182号民事訴訟)。女性が著作を発表したとき、それが女性の手によるものではない、身近な男性の手になるものである……これはまさに女性差別の典型表現であり、けして珍しいものではない。しかしながら、裁判中にそれを証明するべく、国内の文学的研究をリサーチしたところ、そうした研究はまだ存在しなかった。このため、裁判所には、アメリカの女性作家ジョアナ・ラスの批評書 How to Suppress Women’s Writings 「女の書き物を抑圧する方法」(テキサス大学出版局、 1983年)の第三章を訳出して提出した。
 同書は、古今東西の女性作家と作品を緻密に調べ上げ、女性表現者たちがどのように貶められてきたかを、次の八項目にわたって類型化する画期的な批評書である。
 次の文言は、表紙に刷られている項目だ。
1. 彼女は(自分自身で)書いてなかった。(書いたのは明らかに、彼女なのに)。
2. 彼女は書くべきではなかった。(政治的、性的、男性的、フェミニスト的な著作だ、などの理由で)。
3. 何を書いたか見てみろ! (女性特有の話題しか扱ってないじゃないかというニュアンスで。女性特有の話題を特に強調しているものも含まれる。たとえば、寝室、台所、家庭、女そのものといったことをテーマにしている)。
4. 彼女は一発屋だ。(例『ジェーン・エア』、哀れなことに一生にその一作だけだった、というような評価)。
5. 彼女は本当の芸術家ではないし、作品も本物の芸術ではない。(スリラー、ロマンス、児童文学、それにSFといったサブジャンルの作家じゃないか、とラベリング)。
6. 手伝ってもらって書いた。(ロバート・ブラウニング、ブランウェル・ブロンテら身内の男の助けがあったとして、評価を貶められた例。一人ではなにもできない、というニュアンスで)。
7. 彼女だけは特別だ。例外的人物だ。(他の女性とは違うという二ュアンスで。例としてはヴァージニア・ウルフ、ただし夫レオナルドの助力はあったと言及されることあり)。
8. その他 (彼女は書いたが、しかし! とその後に一人では何もできないなど暗示するなにがしかの理由がくるもの)。
 同裁判で扱われた事例は一番目に該当する。裁判自体は2001年12月に原告勝利をもって終結したが、こうした嫌がらせが現代においてもなお頻発しており、慣習のなかで見過ごされかねない事情、あるいは泣き寝入りせざるをえない事情があることを知った。これらの問題が頻発しているにもかかわらず表面化しにくいのは、そうした差別意識を男性も女性も内面化し、これが嫌がらせの類型表現であることに気づかないためではなかろうか。それを明らかにしていく必要があるのではないか、と考えたのである。
 メアリ・ジャコウバスが作ったテクスチュアル・ハラスメント(文章上の性的嫌がらせ)というタームは 1982年、ラスの著作に先行して登場したものだ。ジャコウバスは、アメリカの文学批評家スタンリー・フィッシュ『このクラスにテクストはありますか』(1980年)から、このことばを思いついたという。フィッシュは、解釈共同体理論を提唱する批評家であるが、ジャコウバスは、解釈共同体理論を論争的に繰り出すフィッシュが、同論考のなかで、無意識に女子学生を「教師という上位の男性の言葉を鵜呑みにし、洗脳されたただの信者、つまりフィッシュという男に(頭を)犯された女」とみなしているところから、フィッシュの言い方自体を「文章上の性的嫌がらせ」と批判し、同時にフィッシュの理論を援用して、テクハラの背後に(性差別的)認識を共有する男性たちの解釈共同体がある、と指摘したのである。ジャコウバスの書いた「このテクストに女はいますか? 」という論考は、ジョアナ・ラスの著作と共鳴している。
 それでは、ジャコウバスやラスの指摘する「テクスチュアル・ハラスメント」は、わが国の文学ではどれほど見られるのだろう。裁判の過程で、女性のクリエーター約500人を対象にアンケート調査をし、ラスのまとめた類型を見たこと、あるいは体験したことがあるか、あった場合その具体的な内容はなにかと尋ねたところ、約 80件の回答があった。
 なかでも顕著な実例が、明治末期の俳諧で起きた「沢田はぎ女事件(はぎ女架空説)」である。明治の俳壇にまだ女性が登場していなかった頃、「はぎ女」と名乗る女性俳人が突然彗星のように現れ、短い期間に夥しい量の俳句の傑作をものにするも、有名になり始めたそのとき、彼女の俳句は夫の手になるものだという噂がたち、しばらくして夫婦ともふっつりと姿を消してしまった、という事件である。昭和なかばに女性俳人の研究をしていた池上不二子が、ふとしたことからはぎ女架空説に強く疑問を持ち、徹底的に調査し『俳句に見せられたをんな』(1957年)に一章をさいて書いたところ、なんとまだ生きていた本人から連絡があり、架空説自体が虚偽である事が発覚した。のちに吉屋信子が「はぎ女事件」(1965年)にその顛末を詳しく書いている。
 今後、テクスチュアル・ハラスメントを是正して行くにはどうしたらよいのだろう。前渇ジャコウバスは、フィッシュの解釈共同体理論を応用して、テクスチュアル・ハラスメントを共有する男性中心的価値観の解釈共同体の存在を指摘した。テクスチュアル・ハラスメントは、この解釈共同体があるかぎりなくなるとは思えないが、女性らの解釈共同体による対抗言説を張る事により、テクスチュアル・ハラスメントとはどういうものかを理解し討議し、文脈を変えて行く事はできるのではないだろうか。そうした言説空間の構築が、21世紀の今日では必要なのである。

<テクスチュアル・ハラスメントを知るための参考文献>
・ジョアナ・ラス『テクスチュアル・ハラスメント』小谷真理編・訳(インスクリプト、2001年、3600円)。
・小谷真理「一五年目のテクスチュアル・ハラスメント」<現代思想>2013年11月号、136-143.

ドキュメンタリー映画「カタロゥガン!ロラたちに正義を!」上映会

2013年6月14日(金)実施



【主催】明治大学情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター
【日時】2013年6月14日(金)18:15~20:15 
【会場】明治大学駿河台キャンパス リバティタワー地下1階(1001教室)
【参加人数】約60名
【コーディネータ・司会】平川景子(文学部准教授)
【上映後のレクチャー】竹見智恵子氏(映画監督)
報告:情報コミュニケーション学部ジェンダーセンター
<映画の概要>
 太平洋戦争が始まった時、フィリピンはアメリカの植民地だったため、否応なく日米の戦争に巻き込また。日本軍が侵攻してくると、長年植民地支配に苦しんできた人々は、新たな侵略者である日本軍への抵抗運動を組織して立ち上がった。日本軍はこうした人々の動きをゲリラの蜂起と見なし、激しい弾圧を加えた。こうした中で、若い女性や少女たちが次々と捕らえられて「慰安婦」にされたり、ゲリラへの報復として集団レイプを受けるなど、日本軍による激しい性暴力が吹き荒れた。ドキュメンタリー映画「カタロゥガン!ロラたちに正義を!」は、太平洋戦争時に日本軍による「慰安婦」被害を受け、戦後60余年、心身の傷と差別に長く苦しんだ、フィリピンのロラ(おばあさん)たちのドキュメントとして、高齢を迎えたロラたちの証言を記録に残すこと、現地に残る史跡を映像に残すことを目的に作られた。ドキュメンタリーは、性暴力を受けたフィリピン各地のロラたちの声、日本兵によるゲリラ弾圧の現場の生々しい目撃談、慰安所を管轄していた日本兵の証言を追い、その中で日本軍がフィリピンの民間人に行ったすさまじい暴力の実態が浮き彫りにされる。ロラたちは「カタロゥガン!(正義を)」を合言葉に街頭デモを行い、今日もなかまたちとともに正義の回復を求めて闘いを続けている。

<上映後のレクチャー>
 映画の上映後に、監督の竹見智恵子氏によるレクチャーが行われ、フィリピンのロラを取材して撮影した経緯や、ドキュメンタリーに登場したロラたちの証言の細部などが語られた。レクチャーの後の質疑応答では、参加者から監督に活発に質問が投げかけられるなどの場面が見られた。
 終了後のアンケートでは、参加者から、フィリピン住民への日本軍の弾圧や慰安婦問題といったこれまで日本ではほとんど伝えられてこなかった事実を知り、歴史認識を新たにしたという声が多数寄せられた。